6月上旬、某日。
「・・・・・・」
早めに着いた部室で読みかけの本を手にしていた黒子は、何度も同じ行を行ったり来たりしては進まない物語に人知れず溜息を付いた。
先日の梅雨入り宣言からガラリと変わった天気は、どんよりとした雨雲を運び、気が滅入るような蒸し暑さをもたらす。
その高い湿度に当てられて、黒子はいつもの凛とした態度からは想像ができないほどげんなりとしていた。
いつもならすぐに読み終わる小説も、こうも暑くては一向に進まず、だからといって他に楽しめそうな代替案があるわけでもない。要するに退屈なものは退屈なのだ。
暑い‥つまらない‥暑い‥つまらない‥
黒子は自慢のポーカーフェイスの下でそんな不満を呪文のように繰り返していたが、唱え続けたところでその嘆きが解消されるわけもなく、もう一度溜息を付くと、隣に座る人物に何気なく視線を移した。
毎日教室まで迎えに来ては、当然のように隣りの席を独占し、自分とは対照的にへらへらニヤニヤしている人。
それは今この瞬間さえも例外ではないらしく、惜しげもなく晒されるそのアホ面に黒子は呆れたように三度目の溜息を零した。
特に何をされているわけでもないがどうにもこうにも憎らしく思えてしまうのは、こんなイライラするような暑さの中、場違いに幸せオーラを撒き散らされても室内の温度が上げられているようにしか見えないからで、理不尽とは知りつつも、文句の一つや二つくらい許されるだろうと口を開いた。
「黄瀬くん、」
けれど次の瞬間、ふと思い付く。
それはこんな退屈な日々を少しだけ有意義に過ごせそうな方法。
そしてその思い付きに黒子は隠すことなくふっと笑みを零した。
「なんスか、黒子っち?」
ただ何となく、本当にただ何となく、そうしたら面白そうだなと思っただけ。
「ボクのこと、好きですか?」
だから、たった今からゲームスタート。
Come on!
何の前触れもなく発せられた黒子の台詞に、そこに居合わせた青峰はブハッと飲んでいたドリンクを噴出した。
「テ、テツッ!?」
「汚いですね何してるんですか」
「今のはどう考えてもお前の所為だろっ!!」
「知らないですよ」
大胆に飛び散った飛沫で濡れたテーブルを慌てて拭きながら青峰は責めるが、そんなことは気にも留めず、黒子は再び黄瀬を視界に捉えて微笑んだ。
驚きのあまり言葉を失っているのかただ茫然とこちらを凝視する黄瀬の姿に、黒子はさらに満足げに問い掛ける。
「好きじゃないんですか?」
不安げに眉根を寄せて聞く仕草があまりにも可愛くて、黄瀬はブルッと身体を震わせると、漸く我に返って慌てふためいた。
「な、何言ってんスか!?めちゃめちゃ好きに決まってるじゃないッスか、何でそんな可愛らしいこと急に言い出したんスか!?もしかしてこの場で押し倒してもいいっていうっっ……ことではないっぽいっスね…」
衝撃的な出来事に勢い余って欲望のままを口走った黄瀬だったが、すぐさま可愛い顔を一変させた黒子に萎縮して語尾を弱めた。
それを見ていた青峰は、気持ちは分かってやらなくもないがテツ相手にそこは強行突破できないだろと、哀れな視線を向けた。
途端に勢いを失った黄瀬に、黒子はそれも計算の内だと言うように小さく笑みを溢すと、再び問いかける。
「なら、ボクのお願い聞いてくれますか?」
黒子からのはじめてとも言えるお願い事に、黄瀬は沈みかけていた身体をぐわっと持ち上げた。
「ど、どうしたんスか??黒子っちがそんなこと言うなんて珍しいっていうか可愛いすぎ、なんスか甘えたいんスか?」
そう言ってへらへらと顔を綻ばせた黄瀬の横っ腹に、黒子は当然の仕打ちとばかりに思いっきり拳をめり込ませた。
「痛っ!なんなんスか黒子っち!アンタのそれは不意討ちだとヤバいっていつも言ってるじゃないッスか!」
「うるさいです、そんなことよりボクの頼みを聞くのか聞かないのかさっさと答えてください」
それを見ていた青峰は、頼む側であっても決して下手には出ない黒子の強さに感服する。けれどその一方で、相手が黄瀬だからこんなにもやりたい放題なんだということを知っている。
「なんスか、さっきまであんなに可愛くオレのこと好き?って聞いてたのに」
未だ鈍痛が響く腹を押さえながら黄瀬が愚痴を溢すと、それを黒子がキツく睨み返す。
「何か言いましたか?」
「何でもないっス、それでお願いっていうのは何なんスか」
ようやく黄瀬が本題に入り、黒子はふわりとほくそ笑んだ。
「実はこの前、大切な手紙を落としたんです。すごく大事なものなんですけど見つからなくて、だから黄瀬くんも一緒に探してくれませんか」
黒子の言うその手紙とは、つい先日友人から送られて来たものだと青峰は聞いていた。
いつも本に挟んで持ち歩いていたが不注意で落としてしまって以来見つからず、この暑さにやられていつの間にか探すのを諦めていた手紙。
それをここへきて黄瀬にも探させようというのだ。あんなふうに「ボクのこと好きですか?なら探せますよね?」的な伏線を引いたあたりが黒子らしすぎる。
テツ…おまえ、一人で探すのに飽きたからって黄瀬を巻き込んだなと、黒子を溺愛するあまり切ないほどいいように使われている黄瀬を、青峰は毎度のごとく不憫に思った。
「そんなに大切なものなんスか?」
「えぇ、とても」
縋るような目もまたわざとなのか、黒子にそんな表情で言われて黄瀬が断れるはずもない。
「分かったっス」
「いいんですか?」
「黒子っちのためならよろこんでっスよ!」
「ではお願いします、って言っても実際はゲームなので」
「ゲーム?」
「えぇ、せっかくなんでどちらが先に見つけられるか勝負しましょう、その方が楽しそうなんで」
と、そんな嬉しそうに言われてはイヤでも承諾するしかない。
「まぁ…別に構わないっスけど」
すると黒子は滅多に見せない無邪気な表情で笑った。
「それじゃぁタイムリミットは2週間。黄瀬くんが勝ったらボクのこと好きにしてもいいですよ」
その瞬間、まるでお約束のように含んでいたドリンクを噴き出したのは青峰だった。
「は!?テツ、おまえなに言って!?」
ダイナミックに濡れた口元を押さえながら黄瀬へと視線を伸ばした青峰は、放心状態で口をぽかんと開けたままのアホ面を確認して、それはそうだろうと納得する。
「なんですか、不服ですか」
そう聞いても何の反応も示さない黄瀬に、黒子が目の前で手の平をはためかせると、ようやく我に返って慌てふためいた。
「く、黒子っちっ!?自分が何言ってるか分かってるんスかっ!?」
「当たり前じゃないですか、こういうことは期限付きの方がやりがいもあるし、ダラダラと探しても効率が悪いだけなので」
「そういうことじゃなくてっ、オレが黒子っちのこと好きにしてもいいって本気で言ってるんスか」
「そっちですか、えぇ本気ですよ、キミが一番頑張りそうな見返りじゃないですか」
そう言って大胆不敵に微笑む黒子だったが、狙っているのか天然なのか分からず黄瀬は無駄にドキドキさせられる。
「それで黒子っちが勝ったらどうするんスか」
「ボクは別にあの手紙が見つかれば十分なので」
「え、まさかそんなに大切なものなんスか?」
「そうですね」
あっさりと認める黒子を横目に、その手紙が誰からのものなのか気になって仕方ない黄瀬だったが、どうしてか聞くことを躊躇われた。
「それでほんとにそんな約束しちゃっていいんスか?オレ遠慮しないっスよ、黒子っちにしたいこととか、させたいことなんて山ほどあるんスから」
勝手な妄想でも始めたのかニヤニヤとやらしい表情を浮かべた黄瀬に、黒子は珍しく動じた様子もなくむしろ爽やかな笑みを返した。
「気が早いですね、そいうことは勝ってから言ってください。それに2週間過ぎたらこの条件は無効、さらに目的のモノが見つかるまでボクに触れることは一切禁止です」
「アホっスか、そんなの無理に決まってるじゃないっスか」
即答する黄瀬に黒子は呆れたように項垂れた。
「ルールなんだから守ってください」
「イヤっスよ、それに最後のルールなんて誰も喜ばないじゃないっスか」
「ボクが喜びます」
「なんでっスか!?」
「だってキミ、この暑い中ベタベタと毎日ウザいので」
「ひどっ!」
「ひどいのはどっちですか」
「まさか本当の目的はそれっスか!?」
「キミにしては鋭いですね」
「心折れるっス」
「まぁまぁ」
こうして青峰にとっては至極どうでもいい低レベルな問答が繰り広げられたあとで、最終的に黒子の思惑通りにゲームはスタートした。
あれからすでに1週間。
変わらず全力は尽くせども、その手紙が見つかる気配は一向になかった。
黒子の期待を余所に2人掛かりでも見つからないそれに、自然と不安と焦りが募る。それを誰かが先に見つけてしまっては非常に厄介なのだ。
部活が始まる前の部室でいつものように黒子がげんなりとしていると、そこへふらふらと重い足取りでやって来た黄瀬が、何も言わずに黒子の隣りのイスへどさりと倒れ込むように身を沈めた。
普段の煩いほどの元気はどこへやら、かなりへばった様子の黄瀬に、黒子は目を丸くした。
「大丈夫かお前、日に日にやつれてんぞ」
傍にいた青峰が先に声を掛け、黄瀬がむくりと視線を上げる。
「全然大丈夫じゃないっスよ」
その台詞に、黒子はこの暑さの中、どこにあるのかも分からない手紙一枚探させるのはやはり酷だったのかもしれないと心を痛めた。
自分の不注意で失くしたものなだけに居た堪れない気持ちになった黒子は、黄瀬に声を掛けようとそっと唇を開いた。
けれどそれよりも早く青峰に言葉を繋がれて、敢え無く言葉を飲み込んだ。
「お前が必死になるのも分からなくはねぇが、この暑さの中当てもなくそんなもん探し続けてたら倒れんぞ、少しは加減しろよ」
「そうじゃなくて、もう足りないんスよ」
そう呟きながらガバっと勢いよく起き上がった黄瀬が舐めるように黒子を凝視し、本能的に背筋が凍る。
「は?」
「だからもう黒子っち不足でどうにもならないんスよ!1週間スよ!?1週間まったく触れてないんスよ!もうちょっと簡単に見つかるかと思ってたのに…あぁぁあもうダメっス!!このままじゃ死ぬっス!!」
所詮アホはアホなのだ。心配して損したと、黄瀬のこの台詞に青峰は言葉もなく深い溜息を吐いた。
しかし黄瀬は青峰のそんな卑下た視線などものともせず、隣にいる黒子との距離を無言で詰めた。
「なんですか」
とてつもなくイヤな予感に襲われて、黒子は眉間の皺を一層寄せた。
「そういうわけだから、キスさせて」
その瞬間、青峰の顎が外れるんじゃないかというくらいあんぐりと開き、黒子の額にはピクピクと青筋が浮き上がった。
「いっぺん死んでください」
「それなら抱き締めてもいいっスか?」
「ダメに決まってます」
「だったらどこでもいいから触らして」
「変態ですか」
「・・・・・・・」
黒子のあまりにもひどい悪態ぶりに黄瀬はふらりと一瞬眩暈を起こしたが、すぐさま立ち直り、青峰へと振り返った。
「聞いてよ青峰っち、この人週末うちに泊まりに来たときも、同じベッドで寝てるのに触ったらダメとか言うんスよ、それって拷問だと思わないっスか」
「黄瀬くんっ!!!!!!!」
黄瀬のこの台詞にはさすがの黒子も慌てて立ち上がり、勢いで倒れたイスが大きな音を部屋中に響かせる。
そしてこの暴走をなんとか食い止めなくてはと、黄瀬の制服の襟元を引っ張った。
すると黄瀬はそれにニヤリと笑い、すかさず黒子の腰をグイッと引き寄せる。
「ちょっ、なにするんですかっ」
予期せぬ出来事に驚く黒子を余所に、黄瀬はぎゅっとその身体を強く抱き締めた。
「はぁ‥これでやっと黒子っちを補給できたっス」
そう言って至極満足そうな黄瀬だったが、黒子がそれを許すはずもない。
「黄瀬くん、キミ、約束破りましたね‥」
ふるふると震えながら怒り出した黒子に黄瀬は慌てて両手をパッと離すと、ロッカーから着替えを取り出し逃げるようにドアへと向かった。
「相変わらずケチっスねぇ、減るもんじゃないしいいじゃないっスか、これでこのあとの練習もオレは頑張れそうっスよ」
「黄瀬くん、キミ‥」
怒りに震えの止まらない黒子を横目に、黄瀬がああそうだと思い出したように言葉を続ける。
「黒子っちも今ので足りなくなったならちゃんと言うんスよ?」
今は幸いにも青峰しかいないとは言え、そうやって場所も弁えず軽々しい発言をする黄瀬に、黒子は羞恥と怒りで顔を真っ赤にさせた。
「もう二度とボクの前に現れないでくださいっ!!!」
そうして黄瀬が出て行ったあとも、黒子の声だけが部室に木霊していた。
それからさらに数日、黄瀬は本当に黒子の前に姿を現さなくなった。
テスト期間に入り部活動が休止になったこともあるが、それならそれで、いつもなら教室まで迎えに来ては図書室に同行するのだから、きっとそれが理由ではない。
タイムリミットが2日後に迫った今日も会いにく来ることはなさそうで、図書室の壁に掛かる時計をチラリと横目で確認した黒子は、ふぅと人知れず溜息を付いた。
「黄瀬が来なくて淋しいんだろ?」
それを見逃さなかった青峰は、常に二人の熱に当てられっぱなしで迷惑している鬱憤を、ここぞとばかりに晴らそうと薄笑いを浮かべる。
「そんなことないです」
「まぁそうだよな、ここで会えなくてもメールの1本でもすりゃすぐに会えるもんな」
「さぁどうでしょう、連絡もしてませんから」
「なんでだよ」
予想外の返答に青峰が怪訝な表情を見せると、黒子は口籠りながら先を続けた。
「それは、まぁ‥黄瀬くんが、‥」
「黄瀬がなんだよ」
「だから、ボクが禁欲させてるのに、傍にいたら迷惑だろうと思っただけです。それに黄瀬くんがそれでも連絡してこないってことは、本当にイヤなんだろうし‥」
だんだんと語尾を弱めていった黒子に、本来なら励ましの言葉でも掛けてやるべきだったのかもしれないが、青峰は到底そんな気分になれなかった。
「お前もけっこーアイツのこと好きな」
「どうしてそうなるのか分かりませんが、嫌いじゃないですよ」
「あーハイハイ、ほんとにな」
日頃の鬱憤を晴らすために軽くからかってやるはずだったのに、結果的に黒子の無自覚な想いに当てられただけで何一つ得にならなかったなと、青峰は後悔しただけだった。
それからだいぶ時間が経って、利用時間をとうに過ぎた図書室はしんと静まり返っていた。
見回りの先生が来るまでの間はいつも一人で、誰にも邪魔されないこの時間が黒子は一番好きだった。
けれど突然の訪問客に黒子はびくっと肩を震わせる。
「黒子っち、みーっけ」
それは久しぶりに見た黄瀬の姿で、予想していたよりも随分明るい表情に、黒子の胸が密かにチリっとした。
ここ最近ずっと会えない日々が続いたうえ、お互いまったく触れていない。
指先も唇も視線も、強く望んでいたのは自分の方だったと気付かされた2週間。
退屈凌ぎに始めたゲームにこんなにも翻弄されるとは思いもしなかった。
記憶に残る黄瀬の感触が黒子を追い詰めて、心と躰が待ち切れずにそれを欲しているのをこの人は知っているのか。
責めてやりたいけれど、そんなことは口が裂けても言えるはずがなくて、爽やかに声を掛けてくる黄瀬を不満に思いつつも、黒子は平静を装った。
「なんだか久しぶりですね」
「そーっスね」
「テスト勉強はしてるんですか」
「してるっスよ、それに黒子っちの探しモノも」
「それより今はテスト勉強を優先してください」
「言うと思ったっス」
言いながら黒子の隣りではなく目の前の席に向かった黄瀬は、イスの背に凭れるように腰を下ろした。
今までだったらさり気なく触れていた手が届かなくなって、自分が出した条件とはいえ、言いようのない感情が再びく黒子を襲った。
「他の生徒はもういないんスか」
「利用時間すぎてますから」
「あぁそっか、これは鍵を持ってる図書委員の特権っスね」
「そうですね」
「なら見回りの先生が来るまで平気っスよね」
「何がですか」
「それまでちょっと休ませて」
そう言い終わるか終わらないかのうちに側にあるイスを合わせてそこへ横たわった黄瀬は、あっという間にすぅすぅと静かな寝息を立て始めた。
その様子からよっぽど疲れているんだろうなと悟った黒子は、珍しく何も言わず寝かせてやると、焦燥感にも似た複雑な気持ちを抱えながら再びノートに目を移した。
自分が始めたゲームとはいえ、それは相手の存在の大きさを改めて知っただけで、それ以外の収穫は何もなかった。
当たり前のように触れていた手が絡むことがなくなって、求めるように甘い吐息を運んでいた唇が重ならなくなって、不安すら覚えていたのにそれは自分だけだったのか。
間もなくして見回りの先生がやって来ると、静かな部屋に扉の開く音が響く。
普段通りならざっと辺りを見渡して、こちらに気付けば帰りを促してくる。
たいていの場合は気付かれないけれど、今日は極端に目立つ相手がいるからか、視線がそこで止まった。
「そこにいるの黄瀬か?」
「はい、そうですけど」
「一緒に勉強してたのか」
「いえ、あ、えっと、その‥」
咄嗟に正直に答えてしまったことを後悔した黒子に先生が笑う。
「だろうな、ってことは今日もこんな時間まで探しモノしてたってことか」
「え?」
その言葉に黒子が驚いた表情を見せると、何か察したのか先生が話を続けた。
「知ってるか?」
「知ってるというか‥、」
「こんな時間まで毎日何を探してるんだか」
「どうしてそれを知ってるんですか」
「このまえ遅くまで校内に残ってるところを見つけてな、今はそんなことよりテスト勉強が優先だろって注意したら、そう思われるのがイヤだからいつもよりしてるって生意気な顔するから解放してやったんだよ。実際珍しく分からないところも聞いてくるし、こんなところで寝るらいには遅くまで勉強してるんだろうよ」
なんだか知らないがよっぽど大事なものなんだなぁと目を細めた先生に、黒子は返す言葉を失った。
「こんなところで寝てないでたまには早く家に帰れって言っとけ」
そう言い残して出て行った先生の背中を見送ったあとで、黒子は弾かれたように黄瀬へと振り返った。
先ほどまで抱いていた不安がウソのように消え去って、それとともに湧き上がった別の感情。
再びしんと静まり返った室内で、黒子は徐に立ち上がると寝ている黄瀬の下へと歩みを寄せた。
穏やかに寝息を立て、無防備な寝顔を晒す姿に頬が緩む。
そして気付いたときには、欲望のままにその衝動を抑えることができなかった。
黒子はイスと机の僅かな隙間に入り込んで、片手で背もたれを掴むと、黄瀬を起こさないように唇を寄せる。
目の前に黄瀬の顔が迫って眩むほどの劣情に襲われれば、それに抗う術を黒子はもはや知らなかった。
突然感じたやわらかい感触に気が付いた黄瀬は、ゆっくりと眠りから覚めた。
けれど睡眠不足と疲労から重い瞼がなかなか開かない。唇に重ねられたしっとりとした熱が心地よくて、瞳を開くことがさらに躊躇われる。
この甘い感触は他の誰でもなく、ただ一人求めて止まない人のもの。
触れたくて会いたくて、その欲望の果てに見ている幻覚ならもう少しこのまま味わっていようと、黄瀬はその感触に答えるように無意識に自分の唇を合わせ返した。
けれどそれは当然黒子には予想外の反応で、驚きのあまり慌てて唇を離そうとしたが、求めるように捕らえて離さない黄瀬の熱に抗う意思を容易く奪われる。
「っん、…ぁ‥… は、‥」
互いの舌が絡み合い、黒子の唇から熱い吐息が洩れ始める。
すると黄瀬は、その艶めいた声にようやくこれが現実だと気付き、目を開いた。
それはきっと気まぐれで落としたキスだったはずで、目の前でキツく目を閉じたままの黒子に思わず腕を伸ばす。
両手で黒子の頬に触れ、口付けをさらに深くする。
それにはさすがに黒子も目を開いたが、そんなことを気にしてられないほどの激しいキスが待っていて、すぐさま主導権を奪われる。
濡れそぼった舌で口腔を侵され、繰り返し与えられる淫靡な熱に黒子の意識が飛びそうになると、黄瀬はようやく唇を解放した。
二人の間を結ぶ糸に、黒子は居た堪れずに視線を逸らす。
「で、急にどうしたんスか」
そんな黒子に黄瀬はふっと笑みを零したあとで、茶化すように聞く。
「ただの補給です」
「へぇ、でもそれはルール違反じゃなかったんスか」
「キミだって前回同じようなことしたじゃないですか」
負けじと言い返した黒子だったが、青峰がいる前で抱き締めたのと、誰もいない図書室でこうして襲われるのとでは訳が違う。
そういう状況の違いにまったく気付いていないんだなと、黒子らしい鈍さに黄瀬は心中で苦笑した。
「そーっスね」
穏やかな表情で返すと、どうしてか黒子の表情が俄かに翳り、意外なセリフが零れた。
「もう止めますか?」
黄瀬はその意味するところが分からず無言のまま黒子を見つめ返した。
「勝負です、キミ絶対無理してますよね、ボク一人でも探せますし、どうせ期日もあと2日です」
どうして突然そんなことを言い出したのか、黄瀬は戸惑いを隠せなかった。
「大丈夫っスよ、ムリなんてしてない。つかなんで急に?」
「今日の見回り、キミの担任でしたよ」
意味深に目配せをした黒子からその含意を汲み取った黄瀬は、チッと小さく心の中で舌打ちした。
きっと何かを聞いたのは確実で、それを受けてやめようと言うのなら、知られたくない事実を知られたに違いなかった。
できれば黒子にだけは知られたくなかったのにと、黄瀬は諦めたように溜息を付いた。
「そうは言っても黒子っちの大切なモノなら何に変えても探したいんスよ」
不意に向けられた真っ直ぐな瞳に黒子はどきりとする。
「だからもう一回キスしてよ、そしたらあと2日で探してみせるから」
そんなふうに言われては何も言えなくて、頬に触れる黄瀬の指先がもどかしかった。
「ルール違反ですよ」
黒子はそう言って微笑むと、黄瀬の唇にもう一度キスを落とした。
2日後、颯爽と図書室へ訪れた黄瀬は、ぐるっと辺りを見渡して、そこに黒子と青峰を見つけると、満面の笑みを零した。
二人の机に迫るや否や、「こういうのを愛の力っていうんスねぇ」と言った黄瀬に、黒子はまさかと目を見開く。
「これっスよね、黒子っち?」
手にした小さな封筒を至極自慢げにかざす黄瀬。その手の中にあるものを見た黒子は、まぎれもなく自分の探していた手紙であることに驚いた。
「すごいですね…」
「お前のテツに対する執念もここまでくると尊敬に値するな…」
黒子も青峰もこればかりはすごいと、呆れながらも感心する。
「しかも今日っていうのがまたすごいです」
「だな、なんとしても最終日までに捻じ込んでくるところがすげぇわ」
「いえ、そうじゃなくて」
すぐさま異を唱えた黒子に青峰は怪訝な表情をしたが、黒子はそれには答えなかった。
そして一方の黄瀬は、満足そうに黒子のもとに近寄ると、手にしていた封筒を差し出した。
「はい、これでオレの勝ちっスよね?」
嬉しそうに笑う黄瀬に、黒子は慌てた様子もなく答える。
「はいってそれもともとキミ宛ですよ、だからあとはキミの好きにしてください」
当たり前のように言い切った黒子だったが、黄瀬にはその言葉が瞬時に理解できずぽかんとした。
「ただ、読むなら今日じゃないと意味ないかもしれませんが」
構うことなく話を進める黒子にそう言われて、黄瀬は手の中にある手紙を見つめた。
自分宛だというのなら、言われなくても今すぐ読むに決まってる。
躊躇いなく手紙を開封した黄瀬は、中から一通の紙を取り出し視線を運ぶ。
すると瞬く間に黄瀬の顔が真っ赤に染まり、それを見た青峰は思わず噴き出した。
「ぶはッ‥!おまっ、なんつー顔してんだよっ!!」
「うっさいっスよ!!!」
「ちょっと二人とも静かにしてください、ここをどこだと思ってるんですか」
一気に向けられた周りの視線が痛くて黒子が小声で非難すると、未だ赤面したままの黄瀬がくるりと向き直った。
「そうは言ってもこれは反則っスよ、黒子っち」
黄瀬はそう言うと、机の上に広がった黒子の持ち物を勝手に片付け始めた。
「ちょっ、黄瀬くん、なにするんですか」
「帰るんスよ」
平然と言いながら、黄瀬はまとめた荷物を片手に、黒子の腕を強引に引く。
「なに言ってるんですか、明日からテストなんですよ」
「今からやったってさほど変わんないっスよ」
「そういう問題じゃないです」
「そういう問題っスよ」
抵抗する黒子をものともせず、黄瀬は爽やかな表情で青峰に振り返る。
「そんじゃ青峰っち、悪いけど黒子っちもらってくっスね」
「おぉ、好きにしてくれ」
「青峰くん!!!」
「そんな大声出していいんスか、さっき静かにしろって言ったの黒子っちっスよ」
そう言われて周りを見れば、さらにキツくなった周囲の視線に黒子はびくっと肩を震わせた。
一瞬にして大人しくなった黒子に笑い、黄瀬が耳元で悪戯に囁く。
「どっちにしろもういられないっスね」
これも戦略の内だったのか、だとしたら自分よりも性質が悪いと、黒子は悔しさから黄瀬を睨み付けた。
二人が去って行った図書室には再び静けさが戻り、あっという間の出来事にしばらく呆気に取られていた青峰は、引かれるように受付カウンターに目を移した。
貸出日に目を留めると、そこには6月18日の日付。
まさか最初からすべて計画だったのか。
自分すら騙されていたことに、青峰は人知れず笑った。
自宅への道すがら、手を放せと悪態を付く黒子に黄瀬が後ろを振り返ってにっこりと笑う。
「無駄な抵抗っスよ、部屋に着くまで放す気ないから必要以上に目立ちたくなかったら大人しくしてる方が無難っスよ」
顔は笑っていても目は本気で、確かに無駄な抵抗だなと黒子は潔く口を噤んだ。 その様子に黄瀬はさらに意地悪く付け加える。
「なんで黒子っちがあんな必死にあの手紙探してたかやっと分かったっス、これをオレ以外に見られたら確かにいろいろマズイっスもんね」
満面の笑みで見つめる黄瀬に、黒子は我慢の限界とばかりにわなわなと震えだした。
「それ以上言ったらぶっとばしますよ」
「なんでっスか?こんなにも想われてオレは幸せだっていう話っスよ?」
そこに嘘偽りはないというような顔をする黄瀬に、黒子はふと以前の会話を重ねる。
『どうしていつもそんなに幸せそうなんですか』
毎日へらへらと自分のもとにやって来ては幸せそうな顔をする相手に、皮肉とも取れるそんな疑問を投げ掛けたことがある。
『黒子っちがいるからっス』
その答えは至極シンプルで、恥ずかしげもなく言い切られたその台詞を忘れたことはない。
出会ったばかりの頃はまるで理解できなかったこの人の行動が、まるで信用できなかったこの人の言葉が、今は素直に受け止められるのは、不覚にも同じような思いを抱くようになったからかもしれなかった。
自室に着いた黄瀬は有無を言わさずベッドへ向かうと、シーツの上に黒子を放りニヤリと笑った。
「手紙もいいんスけど、できれば黒子っちの口から同じこと聞きたいんスけど」
見下ろすように上から覆い被さった黄瀬が、今度は甘えたように耳元で囁く。
「ねぇ黒子っち、言ってくれないんスか」
口にできないから文字にした台詞をそう簡単に言葉にできるはずもなくて、けれど同時に、この低く響く甘い声音に黒子が弱いと知っていてわざとそうするのだから逆らえなかった。
相変わらず卑怯な人だと心中で呟いて、黒子はゆっくりと言葉を紡ぐ。
「キミがいてくれてよかったです」
その刹那、黄瀬はこれ以上ないほど幸せそうに微笑むと、ぎゅっと黒子を抱き締めた。
「オレもっスよ」
「知ってます」
照れたように囁く黒子の唇を言葉ごと奪って、黄瀬はそのまま口付けを深くしていった。
お互いの熱を確かめながら徐々に激しくなっていった口付けは当然そのまま続くかと思われたが、その雰囲気を壊すように黄瀬が再び意地悪く囁く。
「それで、触れちゃダメってルールはなんで必要だったんスか」
言いながら意味ありげに口角を上げた黄瀬に、黒子は心底恨めしそうな顔をした。
「分かってて聞いてるなら悪趣味ですよ」
「黒子っちの口から聞けるなら別にそれで構わないっスよ」
黄瀬の指先が制服のボタンに触れて、黒子は咄嗟にその手を押さえた。
「まさかするんですか」
「この状況でしないと思ってるアンタの方がすごいっスよ」
「明日からテストが…っ」
「アンタさっきからそればっかっスね」
呆れたように軽く吐息した黄瀬は止めていた手の動きを再開して、器用に黒子の制服を脱がし始めた。
「ちょっと待ってくださいっ」
「もう待てないって分かってるっスよね」
「でもっ、」
「2週間っスよ、アンタに触れられなくてどれだけキツかったか」
「かもしれないですけどっ」
「けど、なんスか」
ゆっくりと、けれど畳み掛けるように聞き返されて、黒子は答えに窮した。
「今だって理性飛びそうなんスよ」
そう告げる唇が近付いて、反論など許さないように塞がれる。 別にしたくなかったわけじゃなくて、できれば今日じゃない方がいいと思っただけ。
けれどその理由を口にできるはずもなく、ましてこんなふうにされてこれ以上拒めるわけもなかった。 抵抗をやめた黒子に気付いて黄瀬が意味深に笑う。
「アンタの思惑通り、今日は優しくできそうもないから」
艶めかしく響いた声に、黒子の背筋がゾクリとする。
「そのためのルールっスよね」
これを思惑通りと呼ぶのか、誤算だと呼ぶのか、黄瀬の台詞に黒子はあぁやっぱりと吐息を洩らした。
「だから今日はイヤだって」
「知ってる、明日のこと考えたくないとかアンタも大概エロいっスよね」
「否定はしないです」
予想外の返しに黄瀬は思わず笑い、それならと仕切り直す。
「久しぶりだから燃えるっスね」
「キミ好みのプレゼントでしょう?」
本人にその気はないのだろうけれど、不敵な笑みがひどく妖艶で、黄瀬は沸き起こる情欲に身を震わせた。
「そーっスね、かなり」
熱い吐息を携えて強引に脚の間に割り込んできた余裕のなさに、黒子もまた期待で肢体を震わせる。
「そーいえば言ってなかったですね」
「なにをスか?」
「誕生日おめでとうございます」
その言葉に黄瀬は分かりやすく頬を緩め、それを同じように嬉しく思う時点で自分も大概末期だなと、悟られないよう黒子は首筋に顔を埋めた。
今までも、そしてきっとこれからも、
キミに出会えてよかったと心から思えるこの日を、
この先もずっと絶えることなく祝えたらいい。