ONE NIGHT KISS

このタイミングで部屋に上がったのは得策じゃなかったと、

大画面のテレビを前に、ソファに腰かけていた黒子は迂闊な自分の行動を責めた。

 

イヤミなほど大きなディスプレイに映し出される映像は、臨場感を持ってこちらを圧倒する。

それは本来利点でしかないが、今の黒子にとっては紙一重だった。

 

「コーヒーでいいっスか」

 

カップを両手にリビングへ戻ってきた黄瀬はそう尋ねると、

差し出すでもなく、手渡すでもなく、その内のひとつをテーブルの上に置いた。

 

「ありがとうございます」

 

コトっと音を立てて置かれたカップは来客用なのか、誰かの趣味なのか、

そんなことを毎回律儀に考える自分に嫌気が差しても、誘われればこうやって家に上がるのだから救えない。

 

「もうちょっとそっち詰めてくんないっスか」

 

いつもだったらさり気なく、避けるように床へ座るくせに、

こんなときばかり側に来ようとするのにはきっと裏があって、それが何なのか予想できないはずもない。

 

隣りへ座ろうとする黄瀬を上目に見つめながら、

相変わらず趣味が悪いと心の内で呟いて、黒子は端へとずれた。

 

「どうぞ」

 

平静を装った声は、空気を伝って届いた自分の耳にもそう聞こえたのだから、

きっと相手にもそう伝わっているのだろうと、こんなときばかりは感情があまり表に出ないことを感謝する。

 

「ん、」

 

黄瀬は短く返事をすると、テーブルの上に置かれたリモコンを手に取って、明け渡された場所に腰かけた。

 

二人が座っても余りあるソファはそれだけで互いに触れるほど密接するわけではないが、

その距離がどうであれ、与えられる緊張感は黒子にとって然程変わらない。

 

「なんか見たいのあるっスか」

 

黄瀬が番組表を見ながら気負いのない声を洩らし、

憎らしいほどいつも通りの様子を横目にじりじりとした。

 

「何でも」

 

素っ気ない返事を多少なりとも気にしてなのか、視線がこちらに移ったことを知る。

けれど黒子は敢えてそれに気付かないフリをした。

 

「ふーん」

 

対抗意識からか、そもそもそれほど興味がないのか、

同じように感情の読み取れない返事が耳を掠めたあとで、無造作にチャンネルが変えられる。

 

スピーカーから響く音が部屋中を満たしても、

続かない二人の会話は沈黙を呼び、どことなく居心地を悪くさせた。

 

その空気に耐えきれず手持ち無沙汰からテーブルのコーヒーに手を伸ばした黒子は、

同時に映し出された映像にビクッと肢体を震わせた。

 

それはあまりにも間が悪く、動揺を煽るには十分だった。

 

一瞬止まってしまった手をどうしたらいいのかわからずにいると、

それを知った黄瀬が楽しげに声を掛けた。

 

「飲まないんスか」

 

たったこれだけの僅かな挙動で気にしているときっとバレた。

 

あれほど警戒していたのにと後悔しても、こうなってしまえばすべてが手遅れだった。

この場にウソは逆効果で、隠したところで相手を喜ばせるだけなのは目に見えている。

 

「新しいCMですか」

 

だったらせめて興味なさげに見えればいいと、

平淡な声でそう言いながら再びコーヒーに手を伸ばす。

 

「そーっスね」

 

けれど狙ったのだろう次のセリフに囚われて、途端にそれは叶わなくなった。

 

「これ、結構気に入ってるんスよ」

 

黄瀬の視線が流れているCMに自然と向けられ、

シーンは車窓の夜景から、薄暗いタクシーの中へと差し掛かった。

 

人目を忍ぶようにひっそりと絡められた指先。

自信がなければ出てこない強気なセリフ。

 

思われていると知りながら保つ微妙な距離と、痛いところを突かれると見せる困った表情。

演技だけれど演技じゃないと、経験から知っている。

 

気怠げに逸らされた視線も、時間の確認の仕方も、話し方も、

現実のやり取りだと錯覚させるほどにそのままで、嫉妬と焦燥が交差した。

 

誤魔化すような仕草からそこに気持ちがないと分かっても、

それでも好きだと思うから、何をされても絆され、結局は責め切れない。

 

『キスしようか』

 

面倒になったのか、躱すための常套句なのか、

まるで呼吸をするように誘うキスが、口を塞ぐためだけの手段に見えた。

 

気持ちの在処の分からない男を前に、女性は何を思うのか。

 

唇が重なるシーンの直前で黒子が目を逸らすと、

それに気付いた黄瀬が声を掛けた。

 

「気になる?」

「何がですか」

「ほんとにしてるか」

 

そんなことをわざわざ聞く心理を問いたいが、

それが望んだ回答であってもなくても、今は何も変わらない。

 

「別に仕事ですから」

「ふーん」

「なんですか」

「別に?」

 

真似するような含んだ言い方が会話を途切れさせ、

テレビから流れる音声だけが再び部屋に響く。

 

こういう沈黙はよくないと知っている。

 

ありもしない被害妄想にぐるぐると思考を蝕まれ、

イタズラに相手への理不尽な憤りばかりが募っていく。

 

黒子は軽く瞼を伏せると、やっぱりダメだと吐息を洩らし、

飲みかけのコーヒーをテーブルへ戻したあとで、傍らの荷物を手に取った。

 

「今日は帰ります」

 

ソファから立ち上がった黒子に驚くこともなく、 黄瀬は落ち着いた様子で問い掛ける。

 

「なんでっスか」

「知ってて聞くのは優越感に浸りたいからですか」

 

顔だけを向けて問い返せば、黄瀬がクスリと笑う。

 

「ひねくれてるっスね」

「それはキミでしょう」

 

言ってしまったあとで言い過ぎたと後悔しても遅く、

だからといって謝ることも、無かったことにすることも出来なかった。

 

リビングを出ようとする黒子に黄瀬が再び呼び掛ける。

 

「してないよ」

 

それを聞いてほっとしないわけではないが、

そんな表面的なことを聞きたいわけではなかった。

 

「だからそれは気にしてません」

 

振り返ることなく答え、そのまま玄関へと向かう。

 

するとようやく重い腰を上げた黄瀬が、

追いかけるように黒子に辿り着き、後ろから手首を取った。

 

薄暗い廊下、勢いのままに体を壁に押し付けられて、そこからジンと背中が冷える。

 

「ウソ、気にしてるから帰るくせに」

「違います」

 

両手で逃げ道を塞がれ、見下ろされた影に視界がさらに暗くなる。

 

「じゃあ、何が気に入らないんスか」

 

言葉を遮るようにかぶせられた諸刃の剣となる問いは、

同じように相手も追い詰められている所為なのか、それともいつもの言葉遊びなのか、

考えるのにも飽きて苛立ちが増した。

 

「正直に言ってもいいんですか」

 

困るのはキミですよと皮肉な笑みを浮かべると、

あのシーンを彷彿とさせるように何も言わず、視線が僅かに逸らされた。

 

都合が悪くなると見せる仕草は、フィクションでも現実でも変わらない。

 

「どいてください」

 

少し強めに放った言葉に従うように黄瀬が壁から片手を離す。

けれどそこから踏み出すよりも早く、その手が指先を絡め取った。

 

視界の外ですっと絡められた指先にドキリとしても、

あの女性のように素直に握り返す気には到底なれない。

 

「離してください」

 

上目に睨み付けると、拒むようにぎゅっと手のひらに力が込められ、黄瀬が口を開く。

 

「キスしようか」

 

それは先ほどのセリフそのままで、

なんの罪悪感もなく吐いたのだろうことに苦笑が洩れた。

 

何が目的か知らないが、あのシーンに重ねて楽しみたいのなら、この際付き合ってもよかった。

 

「好きでもないのによくそんなことが言えますね」

 

ここでは作られたセリフでも本心だから違和感もないし、

同じように返せばいいのだから、何も考えなくていい分、気が楽だった。

 

それに、どうせキスする覚悟もない。

 

そう思って自嘲気味に薄笑いを浮かべた黒子は、

次の瞬間、目に映った黄瀬の眼差しにどきりとした。

 

何を考えているのか分からなくても、

不要な緊張を煽るほどのまっすぐな瞳は、それが本気だと教える。

 

「黄瀬く、ん…?」

 

思わず口走った名前は動揺をまるで隠せていなくて、

目の前に迫った唇に、覚悟ができていなかったのは自分の方だと知る。

 

「やめ‥」

 

反射的に空いている手で胸を押し返しても、

気付かないフリを決め込んでいるのか、黄瀬に止める気配は微塵もなかった。

 

ドクドクと脈打つ心臓の音が内側から聞こえているのか、

耳から聞こえているのかさえも分からない緊張に肢体が震える。

 

このまま唇を重ねた先にある安易な関係と、今の関係を秤にかけたことは当然あるし、

脈がないならいっそのことと、相手の気紛れに任せて流されてしまうことも幾度となく考えた。

 

けれどその場に立たされてはじめて、そうできない現実を知る。

 

唇が重なるほど近付いた距離に恐怖して、

黒子は先ほどよりも強く、精一杯の力で黄瀬の胸を押し返した。

 

「イヤだ‥っ」

 

切羽詰った黒子の声に黄瀬はようやく動きを止め、

やっぱりとでも言うように、そこで薄っすらと笑った。

 

「セリフ違うっスよ」

 

至近距離で合わせた瞳の奥から、狙いは不明でも試されたのだと分かる。

 

「もう十分ですよね」

「そうっスね」

「なら通してもらえませんか」

「いいけど今帰ったら後悔するかもよ」

 

未だ握られたままの指先に視線を落とし、黒子はふぅっと溜め息を付いた。

それは暗に、このあと誰かを連れ込む気だと言っているのだろうか。

 

「キミのことを好きになった時点で後悔しかないです」

「言うっスね」

「本当のことですから」

「じゃー好きなのやめる?」

 

二人の間にある温度差はこんな状況でも変わらない。

でも、こんな状況だからこそ確信したこともあった。

 

「そうですね」

 

顔色を変えず返した黒子に黄瀬は口角を上げた。

 

「へぇ、それで誰のとこに行くの?」

「そうなったらキミにはもう関係ないでしょう」

「まぁ、そーっスね」

 

そのまま無言になった黄瀬が考え込むように俯き、静寂が二人を包み込む。

 

「そろそろいいですか」

 

指の力が緩まったのを知った黒子はゆっくりと手を解くと、

黄瀬の腕から逃れるように玄関へと向かった。

 

その背中に黄瀬が声を掛ける。

 

「オレのこと落とすって言ったよね」

 

子供じみた独占欲なのか、そこに特別な感情があるのか、黒子には未だ計りかねる。

けれど過去の記憶を呼び起こしてまで吐かれた核心的な言葉を聞き流すことはできなかった。

 

「言いましたけど、軽々しく蒸し返さない方がいいですよ」

「なんで」

「落とされる気もないくせに」

 

振り返って黄瀬の目を見つめると同じく真剣な瞳がそこにあって、

少なくとも茶化しているわけではなさそうだった。

 

ゆっくりと近付く黄瀬に再び腕を掴まれて、力任せに引き寄せられる。

光の差さない廊下の所為か、その表情がいつもより翳って見えた。

 

「それはアンタじゃないっスか」

 

責めるような口振りになぜかと聞くより早く、

再び近付いた唇と、その仕種が意味する行為に、びくっと四肢が震えた。

 

「ほら」

 

すぐに顔を離した黄瀬が、それが理由だというように口の端を上げる。

 

「本気でそう思ってるんですか」

「じゃなかったらなんで怯えんの」

 

拒んだ理由が分からないのなら、どこまでいっても求めるものは返ってこないはずだった。

 

今までどんな付き合い方をしてきたらそうなるのだろうと疑問に思うが、

常に違う女性の移り香を漂わせているような人にとっては、そういうモノなのかもしれない。

 

「キミに遊ばれるつもりはありませんから」

「どーいう意味っスか」

「そのままの意味です」

 

これで分かれば拾い物だし、分からないなら分かるようにするまでだった。

 

「もともと引く気なんてなかったですけど、」

 

そこで一呼吸置いた黒子は、次の言葉を強調するように続けた。

 

「誰にも触れさせない場所、ありますよね」

 

言っていることがすぐには理解できず戸惑う黄瀬の左胸へ、黒子は徐に手を伸ばし、

その場所を指し示すようにピタリと指先を止めた。

 

「故意か無意識か知りませんけど、奪うんで」

 

覚悟してくださいと勝ち気な表情を見せた黒子に、黄瀬はふっと頬を緩めた。

 

「そういうとこ、好きっスよ」

「だったら早く堕ちてくればいいじゃないですか」

 

揶揄するように軽口を叩いた黒子は、

黄瀬の腕からするりと逃れると返事を待つことなく玄関へ向かった。

 

「結局帰るんスか」

 

クツを履く姿後を眺めながら黄瀬がどことなく不満げに尋ね、

それを耳に心地よく聞きながら、振り返ることなく黒子が返す。

 

「今は丸腰なんで」

 

ドアノブに手を掛けた黒子がゆっくりと扉を開け、静かな部屋にガチャっと無機質な音が響く。

 

「それで勝算はあるんスか」

「ありませんよ」

 

苦笑混じりに即答した黒子だったが、内側に流れ込んだ冷気にぶるっと肢体を震わせたあとで、

思い出したように、あぁでも、と黄瀬へ振り返った。

 

「最近、移り香なくなりましたね」

 

それは黄瀬にとって不意打ちでしかなくて、

心当たりがある分、どきりとした顔を余すところなく黒子の前に晒すことになった。

 

返事に窮する黄瀬にくすりと笑い、黒子は流し目に別れを告げる。

 

「おやすみなさい」

 

扉が閉まると途端にしんと静まり返って、

静寂の中ひとり残された黄瀬は思わず破顔した。

 

誰か一人に比重を置くことなんて今までなくて、

断るのが面倒だというただ一点で大抵の誘いに乗ってきた。

 

誰と一緒でも変わらないはずだったのに、

自ら誰かを選んだことなんてなかったのに、

知らないうちにじんわりと侵食され、その一人が他を霞ませた。

 

それをまさかこのタイミングで悟られるとは思ってもいない。

 

「丸腰とかよく言う」

 

ポツリと呟かれた憎まれ口はどこか嬉しげで、

甘い吐息とともに静かな廊下にふわりと溶けた。

- End -