黄瀬は扉の前で時計を確認すると、気持ちを落ち着けるように深呼吸した。日付はとっくに変わっていて深夜二時を指している。
こんな時間に帰宅することも、予定通りに帰れないのも、今に始まったことではないし、仕事柄それが避けられないことも承知しているけれど、それでも今日だけは早く帰ってきたかった。
会いたいから待っていてほしいと家に呼び出しておきながら、会えずにすれ違ったことが過去に何度もある。そんなことを繰り返しているうちに、自分のいない部屋にあの人が泊まっていくことはなくなった。
会いたいと言えば会いに来るけれど、時間が押していることを伝えれば、帰れる時間まで待って帰っていく。
目が覚めても誰もいないこの部屋はどのくらい冷たかったのか、どんな気持ちで一人この部屋を去っているのか、それを思うと胸が痛む。
確実に会えるときだけを選んで、不確かな日に呼び出すことを止めれば、少なくともそんな思いはさせなかったのかもしれない。
けれどどうしてもあの人が必要な日はあって、早く帰れるかもしれないと思えばその衝動を抑えられなかった。
あの人が居た名残や、その温もりがあれば安堵するから、自分の都合と我が儘だけで会いたいと言うのを止められなかった。
それをきっと向こうは知っていて、だから文句の一つも言わなかったのだろうと思う。
あの人がいなければ息もできない。
黄瀬はポケットからキーを取り出すとゆっくりと鍵を開けた。いつもは気にならないその音が今日はなぜか物音一つしない静寂の中大きく響く。
― どんなに遅くなっても帰るから今日は待ってて
日付が変わる前にと思ったけれど結局思うようにはならなくて、こんな夜更け過ぎまで本当に待っているのか、帰らずにいるのかさえ分からない。
扉を開けると光を灯しているのは廊下の常夜灯だけで、その先にあるリビングの扉からも、どの部屋からも光は洩れていなかった。
玄関にあるのは見慣れた自分の靴だけで、しん、と静まり返った薄暗い部屋の様子に黄瀬はハァと小さく吐息を零した。
手にしていた花束を玄関の戸棚の上にバサッと置くと、それをそのままに靴を脱いで廊下に上がる。
リビングの電気を付けてあたりを見回したところで当然その気配はなくて、キッチンを覗いてはじめて、あの人がこの部屋にいたのだろう痕跡を見つける。洗い立てのカップはついさっきまでいたのかもしれないことを彷彿とさせた。
「やっぱ帰っちゃったっスかね」
ポツリと呟いた黄瀬は諦めたように苦笑すると寝室へ向かった。ドアノブを回し扉を開けると廊下の灯りが真っ直ぐに差し込み、部屋を淡く照らす。
その光がベッドまで届いたとき黄瀬はドキリとした。
布団に潜り込んでいるのか見えるのは髪の毛だけだけれど、それだけでも十分誰がいるのか分かる。
「いた」
小さな声でそう口にすると、黄瀬は思わず破顔した。
バラードゴールド
起こさないようにするりとベッドへ入り込んだ黄瀬は、後ろから抱き抱えるように黒子の背中に寄り添った。
髪から漂う仄かな香りが自分のそれと同じで、たったそれだけのことで腰の奥がぞわり疼いた。
今さら珍しいことでもないけれど、すれ違いの日々が続けば何週間も会えないのは当たり前。今日が何日振りだったかを数えながら黄瀬はゆっくりと身体を離した。
この状況下で理性を保つのはあまりにも困難で、滑らかな肌と甘い香りに触れながら、手を出さないでいる自信はなかった。
「寝込み襲うとあとが怖いっスからね」
思い出したように笑い、髪の先にそっと指を絡めると、その感触になのか、遠のいた温もりを追ってなのか、黒子がくるりと身体を反転させた。
黄瀬はびくっと身体を強張らせ咄嗟に願ったが、自然と胸元に擦り寄った黒子は、納まりのよい場所を見つけるとそこで小さく寝息を立てた。
「あー‥もうマジで可愛いすぎ‥」
以前これをされたとき、それだけならまだ我慢できたものを、無意識に呼んだのだろう名前と微かな寝言に理性を焼き切られた。
込み上げる劣情を抑えられずムチャをしたと、今思い出してもそう思う。ただそのあと一週間口を利いてもらえなかったことを思えば、それなりの代償を受けたとも思う。
直接肌に触れる息遣い、伏せた瞼から伸びる長い睫毛、無防備な寝顔。
そのどれもが自制心を徐々に喰い潰し、黄瀬は困ったように眉根を寄せた。
「なんの試練っスかね」
長い禁欲生活のあとのこれはさすがに拷問に近く、けれど一時の衝動に負けて肉欲を優先させれば、そのあとの結果は免れない。
黄瀬にとって今日は大切な日で、どうしても黒子の怒りを買うわけにはいかなかった。
これ以上見ていたら本当に歯止めが効かなくなってしまうと、ありったけの理性を総動員して黄瀬は劣情を閉じ込めた。
深く息を吐いて気持ちを落ち着けると、黒子の前髪をかき上げそこへそっと唇を落とす。
「おやすみ、黒子っち」
そう告げて目を閉じようとしたとき、目の前で黒子の睫毛がぴくりと動いた。
「ん、‥‥」
鼻に掛かった吐息が洩れ、薄っすらと瞼が開く。
「黄、瀬‥ く ん‥‥?」
いつもならこのくらいのことでは滅多に目を覚まさないだけに、黄瀬は少し驚いて髪に絡めていた指先を解いた。
「起こしちゃったっスか」
優しく問うと、寝ぼけているのか黒子はふっと顔を綻ばせた。
「んー‥ 黄瀬くんの匂いがしました」
それは閉じ込めたはずのモノを解放するには十分で、込み上げる肉欲が背筋をゾクゾクと駆け抜けていった。
本人にその気がない分余計に性質が悪く、黄瀬はその感情を押し込めるように喉を鳴らした。
「おかえりなさい」
黄瀬の葛藤など露程も知らず、黒子が無邪気に笑う。
「ただいま、黒子っち」
その表情に勝てるはずもなく釣られるように頬を緩めると、今度は蟀谷に口付けて、再び眠りについてしまう前にと、一番に伝えたかった言葉を口にする。
「誕生日おめでとう」
その言葉に黒子は目を細めた。
「ありがとうございます」
「ん、 それじゃまだ夜中だし続きは明日にして寝よ」
もう一度額に唇を落として黄瀬があっさりと会話を切り上げると、目が合った瞬間、黒子はひどく不服そうに顔を歪めた。
「さっきからなんで避けるんですか」
意識的にそうしていた黄瀬にしてみれば、黒子のこの言葉が何を指しているのかすぐに分かった。
「ちゃんとしてください」
こちらの心情も知らずただ煽るだけの相手に、黄瀬は心底試されているのではないかと心中で溜息を付く。けれど黒子もまた言ったあとで後悔したのか、直前の言葉を恥じるように黄瀬から強引に視線を外した。
こんなふうに自ら求める黒子は珍しいけれど、それは本人にも自覚があるのだろうとこの仕草で知る。
「唇にして欲しいの?」
今さらそんなことで羞恥の色を見せる姿が堪らなくて、黄瀬は両腕を絡めてグイっとその身体を抱き寄せた。
「いいけど、止まらなくなるっスよ」
耳元で囁くと黒子の肢体が微かに震えた。それはこの問い掛けが黄瀬の言い逃れだと知っているからで、わざと決断を委ねさせるこの言い方を黒子は嫌う。いつもなら悔しげな顔をするから今日もそうだと思っていた。
けれど黒子は伏せていた視線をゆっくりと上げると、今日だけは不満気な表情で黄瀬を見つめた。
「ダメなんですか」
その瞬間、黄瀬の中で必死に繋ぎ止めていた理性の切れる音がした。
「あとで知らないとかなしっスよ」
吐き捨てるようにそう告げると、黄瀬は黒子の顎を持ち上げて、強引に唇を奪った。
「ん‥‥っ」
腿の上に向かい合わせに座らされ、熱く猛った楔が体内へと埋め込まれる。
久しぶりの行為は内壁を圧迫し黒子を苦しめたが、それ以上の快感が内側から広がって、目の前がチカチカとする。涙で霞んだ視界では相手の表情もよく分からない。
それでも黄瀬の手が、腕が、吐息が、声が、身体中を包み込むように纏わり付いてその存在を教えた。
肌と肌が重なり合って、心臓がズキズキと痛むほど感じる。
「ここ擦られんの好き?」
耳元で優しく囁かれ、濡れた吐息を吹き込まれ、視界がグラグラと揺らぐほど感じる。
「‥ッ、あ‥‥ッ」
夜が長いと知ったのは、この部屋で一人待つようになってからで、だからといってそれが淋しいと口にしたことは一度もない。
帰ってこれるかも分からないのに会いたいと連絡を寄越すときは、たいていそれなりの理由があって自分が必要なんだと知っている。
それなら何に変えてでもと思うけれど、待っていれば無理をしてでも戻ってこようとするから、それを知ったとき待つのをやめた。
会えない時間を恋しく思えるのは相手の気持ちが伝わるからで、どれほど自分が思われているのかを、黒子はちゃんと知っている。
たとえば今日の零時ちょうどに来たメールであったり、それが仕事の合間を縫っての行動だったり、その内容であったり。
たった一通のメールがどれだけ幸せな気持ちにさせるのか、この人はきっと知らない。
すれ違う頻度に比べて不安に思ったりすることが少ないのは、そういうことの積み重ねがあるからだと、黒子はちゃんと分かっている。
― あとで知らないとかなしっスよ
唇が離れると欲に濡れた瞳と瞳が重なって、それにゾクリと躰を震わせれば、あとはもう欲しいままに抑えられなかった。
身体を合わせることで会えなかった時間を埋めるように、互いの体温を感じることで二人の想いを確かめるように、それを境に会話は途切れた。
グイっと腰を引き寄せられて、黄瀬の熱が体内を強く擦り上げる。
「うぁっ‥ァ‥‥ッ」
予想外の刺激に黒子が小さく呻くと、黄瀬はその甘い声を塞ぐように唇を重ねた。時間を掛けて丁寧に口付けを繰り返されて、頭の芯がぐらつく。
腰を掴まれたまま身体を離すことができず、勃ち上がった中心が黄瀬の腹部に当たる。鈴口からダラダラと滴る淫水が黄瀬の腹筋を伝って流れ、黒子は羞恥から両腕に力を込めてその胸を押し返した。
けれどそれを拒むようにさらに強く腰を引かれ、激しいキスを繰り返されては願いは到底叶わなかった。
ようやく唇を解放され、黄瀬がいやらしく口を開く。
「そんなにイイ?」
「‥ち、 ちがッ ‥‥ ぁっ、‥」
咄嗟に否定した黒子だったが、黄瀬は最初から答えなど求めていなかったのか、最奥を抉るように、キツく締め付ける体内を下から突き上げた。
「ひぁっ‥‥ ッ‥‥」
反射的に上擦った声を上げた黒子はそれを誤魔化すように、両腕を黄瀬の首筋に絡めてそこへ顔を埋めた。
いつもならこういうときには必ず憎まれ口を返すのに、今日はそんな気配すらない。
思うままに揺さぶられても、羞恥を煽るような言葉を吐かれても、何も言わずただそれに応えようとする。
耳元で繰り返される黒子の浅い呼吸が鼓膜を揺らし、その濡れた吐息が官能となって黄瀬の背中を走り抜けた。
「ねぇ黒子っち、」
自ら誘ってくることなど殆どない相手が、そうまでして求めるなら理由はきっと一つしかない。その兆候は最初からあったのに、黄瀬は今になってそれに気付く。
「思うように会えなくてごめんね」
今までにないほど甘く紡がれた言葉に、黒子は思わず目頭が熱くなるのを覚えた。
「そんなこと思ってませんよ」
本当は物理的な距離を淋しいと思わないはずがない。けれどそれを口にする気は黒子には毛頭なかった。
「それより早く‥っ」
視線を合わせて急かすように続きをせがむと、その仕草に反応するように黄瀬の屹立が内側で腸壁を押し拡げた。
「‥ん、ぁっ、‥‥」
話しをはぐらすためにわざとそうしたのだろうと分かったけれど、黒子が言いたくないならそれで黄瀬は構わなかった。
内壁を圧迫する刺激に黒子の後孔が収縮しても、それに逆らうように黄瀬がいっそう奥へ腰を進め、強引に内側を拡げていく。
「んくっ‥ ハッ‥‥ ァッ‥‥」
黄瀬の手が双丘を左右に開き、下から強く穿つように体内を蹂躙し、揺すられるままに黒子は嬌声を上げる。
「‥ふ、ぁ‥ ッ‥‥ きせく‥ん、‥‥っ」
名前を呼んで、腕を絡めて、縋り付いて、そうやって躰を支えるのが精一杯のはずの黒子が不意に囁いた。
「メール‥‥ ん、‥ ありがとうございました‥」
途切れ途切れの言葉は脈絡がないように見えたかもしれないが、黒子には十分意味があって、どうしても今伝えたいことだった。
それは日付が変わると同時に届いたメールで、おめでとうの言葉と一緒に画像が添付されていた。それを開いたとき思わず頬が緩んだのは、それがひどくこの人らしいと思ったからだった。
「本当は直接渡したかったんスけど」
何か汲み取ったのか黄瀬は戸惑うことなく言葉を返す。
「あの花束、 ‥っ、 どこにあるんですか‥‥」
「あぁ、そういえば別のことに気を取られて玄関に忘れたっス」
思い出したようにそう言った黄瀬の台詞は思いもがけなくて、けれどそこから伝わるものは大きく、黒子はふっと笑顔を零した。
「ひどいですね、‥‥んっ、楽しみにしてたのに‥っ」
その何気ない言葉と表情が、黄瀬にとっては何より心を動かすものだと、黒子は知らない。
「いきなりそうゆうのは反則っスよ」
黄瀬は勢いよく体勢を変えると、繋がったまま黒子をベッドへ押し倒し、背中がシーツに沈んだのと同時に激しく律動を開始した。
「ッ、ア‥‥、や、‥ なんで ‥ァ、‥ッ‥」
胸に付くほど高く両膝を持ち上げられ、脚を大きく左右に割られ、徐々に深くなる挿入が前立腺を刺激すると、それだけで意識が飛びそうになる。
「んくっ‥ 急にはげし‥‥ッ‥」
狭い入口を限界まで拡げられ、押し返す肉壁を強引に抉られ、何度も繰り返し抽挿を繰り返す黄瀬に黒子は涙目に訴えた。
「ひぁっ‥ も、‥すこし、‥ハッ、ぁ、‥ゆっくり‥っ」
それを聞き入れるように黄瀬の動きが僅かに弱まって、黒子は呼吸を整えようと大きく息を吸い込んだ。
「ねぇ黒子っち、」
おだやかに問い掛けながらも黄瀬はその手を緩める気はないようで、ゆるやかに確実に黒子を追い詰める。
「あの花言葉知ってる?」
そんなふうに聞かれるとは思っていなかったけれど、まだ季節でもない花を誕生日に合わせて花束にして、それを贈ろうとする意味を調べないはずもない。
花言葉は「永遠の愛」だと書いてあって、でもきっとこの人は知らないんだろうなと思う。
「ん、ぁ‥っ」
徐々に恍惚とし始める視界に耐えながら黒子は唇を開いた。
「黄瀬くんは、それが、‥っ、色によって違うって、知ってますか‥?」
「え?」
それを聞いた黄瀬は当然耳を疑った。
「キミのくれた黄色は、‥‥実らぬ恋、です」
「え、あ‥、 ウソ‥」
動揺を隠せず言葉に詰まった黄瀬にクスリと笑い、黒子は両腕を伸ばしてもっと近くへ来るよう呼んだ。
「ほんとです、でも‥」
条件反射で顔を寄せた黄瀬にもう一度笑い、両腕を項へ絡めるとぎゅっと引き寄せて耳元で囁く。
「この世界で一番好きな色です」
鼓膜を揺らした声はそのまま全身を侵し、持ち合わせた理性ではもはや止められなかった。
「ひっ‥ ん、っ‥ き、せくん‥‥、もう‥っ ‥ ァ、‥」
潤んだ瞳でそう懇願する黒子に、黄瀬がやさしく笑う。
「朝になったらもう一回言うけど聞いて」
そんな余裕などあるはずもないのに、黄瀬は黒子の両手を取ってシーツへ縫い付けると唇に軽く口付けた。
「ん‥、」
「こういう記念日とかだけじゃなくて、」
黄瀬の言葉に集中しようと黒子は耳を傾けるけれど、思いとは裏腹に限界を迎えた身体は与えられる快楽だけを追うようになる。
「もっとずっと一緒にいたいんスよ」
体内に沈められた熱が体積を増して、内側を押し拡げる。
「だから黒子っち、」
そのままじりじりと奥へ突き進んだそれが一点を突くと、強すぎる刺激に黒子の視界は瞬く間に曖昧になった。
薄れていく意識の向こうで最後に聞こえた言葉。
― 一緒に暮らそう?
それは夢なのか現実なのか願望か、黒子にはもう判断ができなかった。
ただ、そうれあればいいのにと、強く願っていた。
髪を撫でられたような気がして黒子はふっと目を覚ました。
頭がまだ働いていないのか記憶が朧げで、それを辿ろうとすると頭上から静かな声が掛けられる。
「おはよう、黒子っち」
背中に回されていた腕が緩み、呼ばれるままに顔を上げると、そこには嬉しそうに笑う相手の姿があって、黒子は心ともなく安堵する。
「おはよう‥ ございます」
途中から視線を逸らしたのは何となく気恥ずかしさが込み上げたからで、徐々に蘇る記憶に居た堪れなくなった。
「そういえば、」
黄瀬は当然それに気付いたうえで戯けてみせる。
「今日は愛妻の日らしいっスよ」
そして黒子はいつもそれに救われる。
「そうですか」
普段の表情を取り戻した黒子に微笑んで、黄瀬はわざとらしく会話を続けた。
「なんか冷たい感じっスねぇ」
「朝から気持ち悪いこと言われそうだったので」
「えー黒子っちの誕生日にぴったりじゃないっスか」
ニヤニヤとした表情を見せるその軽さが思いの外腹立たしくて、黒子はピアスを避けたところでぎゅっと黄瀬の耳を引っ張った。
「愛妻になった覚えとかないです」
するとその手を取って黄瀬がふっと表情を変える。
「じゃぁなってくれる?」
思いもしなかった台詞にびくっと身体が震え、掴まれた手を振り解こう力を込めると、黄瀬はそれ以上の力で黒子が逃げようとするのを阻んだ。
「そういう冗談は好きじゃないです」
「冗談じゃなくて続きっスよ」
先ほどまでとはガラリと変わった雰囲気と、真剣な瞳に黒子の鼓動が速まる。
「朝になったらもう一回言うって言ったっスよね」
「そんなこと覚えてません」
そう口では言いながら、本当は耳の奥にずっと残っている言葉。それが夢でなければと思ったのも事実。
「ひどいなぁ、結構真剣なお誘いだったんスよ」
本気なのか戯れなのか、どちらとも取れる笑いを含んで黄瀬が黒子を責める。
「どのくらいですか」
それならと黒子は同じように笑って黄瀬を試した。
「たとえばそーっスねぇ、」
黄瀬は表情を緩めると黒子の手を持ち変え、左手の指先を軽く掴んだ。それにどきりとする間もなく、黄瀬の唇が薬指の付け根に落とされる。
「ここに合うリングを用意するくらいにはっスかね」
平然と告げられた台詞に黒子は息を飲んだ。
「まさか買いに行ったんですか」
それがこの場に相応しい反応なのかを考えられるほど冷静ではなくて、黒子はただ混乱した。
「当たり前じゃないっスか」
一つの醜聞が進退に影響するほど、この人はフツーの人とは違う世界にいる。
「自分の立場を分かってるんですか」
本当はもっと違う言葉を望んでいるのだろうけれど、それよりも先に黒子の頭を過ったのは、恐れと不安だった。
「確かに、バレないかと思ったんスけど意外にバレるもんスね」
「なにしてるんですか」
「うん、でもちゃんとしたかったんスよ」
本気で黒子が非難しているにも関わらず、黄瀬はそれに対してただ嬉しそうに顔を綻ばせるだけだった。
「オレなりのけじめだから」
特にどっちがどうだとか比べたことはないけれど、この人のこういうところには絶対に勝てないと、黒子は思い知る。
「それくらい真剣に、これからもずっと一緒にいたいと思ってるっスよ」
人が困難だと思うことを何でもないようにしてみせる、この人のこういうところには本当に敵わない。
「聞いてる黒子っち?」
何も言わない黒子を案じたのか、黄瀬が不安そうに声を掛ける。
「聞いてます」
そう言ってじっと瞳を見つめ返した黒子に黄瀬はうっすらと笑った。
「それで、返事はもらえるんスかね」
会えない日に相手を思って過ごす日もキライじゃなかったけれど、おはようもおやすみも、ただいまもおかえりも、顔を見て言えるならその方がずっといい。
「ん?」
やさしく促されて、黒子はようやく素直に返事ができる。
「はい」
泣かないようにとすぐに唇を噛み締めたのに、
「待たせてごめんね」
そんなふうに言うから、堰を切ったように涙が溢れて止まらなかった。
キミのいる日常はきっと幸せに満ちていて、それならキミを幸せにするために、ボクは何ができるだろう。
そんなことを考えながら、黒子は手始めにキスを返した。