「黄瀬くん、やっぱり遅いですね」
徐に携帯を取り出した黒子は、液晶画面に映った時刻に目をやり一人静かに呟いた。
約束をしているわけではないから、どんなに待とうとそれは相手が悪いワケではない。むしろ今日が平日だということを考えれば、勝手に押しかけてこんな時間まで待っていることに、今更ながら不安が増す。
走り抜けていく車の流れを横目に、黒子は不意に昨夜のことを思い出した。
日付が変わる前に電話を掛けた昨日、久しぶりに聞いたその声に堪らなく緊張して、伝えたいことの一つも伝えられなかった。
日付が変わり唯一言えたのは「おめでとう」の一言で、こちらが口にするよりも早く、部活のあとに外せない仕事があると先手を打たれてしまっては、会う約束すら取り付けられず、欲しいものも聞き出せなかった。
声を聞きたいとか、会いたいとか、そんなふうに相手を欲することが他人に比べて少ないのだろうことは自覚していて、口にはしないけれど、それを相手が不安に思っているのだろうことも知っている。
けれど実際は、忙しく動き回る相手のことを思うとどうしても言えない気持ちがあって、何週間も会えないこの状況を平気だと思っているわけじゃない。
声が聞きたいと言えば、どんなことをしても時間を割くのだろうし、会いたいと言えば、何より優先して会いにくるのだろうと、決して自惚れているわけではなく、あの人には自然とそう思わせる積み重ねがある。
だから余計に言えなくなってしまった我が儘に、不器用にも日々振り回されて、思いだけが無性に募る。
会いたい限界なんて遥か昔に訪れていて、他のことに打ち込むことでしか紛らわすことのできない感情があることを、あの人はきっと知らない。
だから、電話越しの冗談混じりの言葉を真に受けて、居た堪れない心境で今ここにいることも、きっと知らない。
幸福論
家路の先で見慣れた姿を目にした瞬間、黄瀬は驚いて息を飲んだ。
梅雨に入ったとはいえ夜になればそれなりに冷えるこの時期に、制服姿のままで佇むその理由を思えば歓喜に躰が震える。
おそらくそれは今日がいつもと少し違う日だからで、自惚れかもしれないけれど、それでも確かだと思える自信が黄瀬にはあった。
どうしても抜けれらない予定があって、部活のあとに直行しなければならないこと、帰りが遅くなること、それを昨夜の電話で何気なく示唆したのは、聞いたことを後悔させたくなかったからだった。
向こうは端からそんなつもりはなかったかもしれない。ただ万が一そのつもりだったとしたら、断られることよりも、断るこちらの気持ちを汲んで気に病むはずだから、そうさせないようにと先に言葉を塞いだ。
会おうと思えば会えないこともなかったけれど、日付けが変わる前に掛けてきた電話の意味を思えばそれ以上はなくて、電話越しでも伝わるほどの緊張の中、「おめでとう」と言われれば、それを越えるものはなかった。
だからそれだけで十分だと思っていたのに、もしかしたら向こうはそうじゃなかったのかもしれない。
帰りが遅くなると知っていて、それでも家の前で待ち続けていたのだとしたら、理由はきっと一つしかなくて自惚れたくもなる。
黄瀬は込み上げる想いに自然と緩んだ頬を隠すように目を伏せた。そしてもう一度視線を上げたとき、相手もまたこちらに気付き、目が合うと俄かにその表情が緩んだ。
「おかえりなさい、遅かったですね」
「ただいま、黒子っち」
直接耳にした声も言葉もしばらく振りで、たったそれだけで乱りに抱きしめたい衝動に駆られる。
「どうしたんスかって聞くのはきっと野暮っスよね」
気を利かせて言ったつもりだったけれど、黒子には逆効果だったようで、息を飲み込むような仕草に動揺を見て取れた。
どうしようかと次の言葉を選んでいるのか、ぎこちない雰囲気に黄瀬がふっと笑みを零す。
「寄ってってくれるんスよね」
窺うように紡がれた言葉に黒子の指先がピクッと動いた。
黒子がここへやって来たのにはある目的があって、もともとそうするつもりでいたけれど、いざその状況に立たされると少なからず躊躇われる。冷静に考えればきっとひどく滑稽で、ただ、今の黒子にはそれしか思い付かなくて、迷いを払拭するようにごくりと喉を鳴らした。
「いいですか」
「当たり前じゃないっスか」
そう言って笑った黄瀬が、手の平でそっと片頬に触れ、心臓が痛いほどドクドクと鼓動を速めた。
黒子は軽く目を瞑ると、再びゆっくりと開けて、入口の奥へと消える黄瀬の背中を追った。
「適当に座って、何か飲み物用意してくるっス」
促されるままに部屋のソファへと向かった黒子を目で追いながら、黄瀬はふぅっと微かな吐息を漏らした。
玄関の扉が閉まると同時に思わずその腕を掴みそうになったのは、不測の衝動に駆られたからだった。
思うままに躰を抱き寄せ、唇を奪い、舌を這わせ、肌を弄る。有無を言わせず欲望を貪る自分の姿が脳裏に一閃して、ぎりぎりまで伸ばした手を咄嗟に引き戻した。
好きな相手を前に募った劣情を抑えられるほど大人でも、この状況に長く耐えられるほどデキた人間でもない。
触れてしまえば歯止めが効かなくことは自分が一番よく知っていて、もうずっと満たされない渇きを求めずにいることは不可能に近かった。
そしてそうなることを少なからず知っていて、それでも部屋に上げてしまったことを黄瀬は今になってひどく後悔した。
再び溜息を付くと、黄瀬はグラスを手に黒子のもとへと向かった。
「はい、黒子っち」
努めて冷静に出した声はその通り伝わったのか。
気配に気付いた黒子がソファから顔を上げ、差し出されたグラスを受け取る。
「ありがとうございます」
そのまま口元へ運び、ほんの少しだけ中身を含むとまたすぐに唇を離す。そんなごく当たり前の仕草ですら色めいて、浅く口付けた唇から途端に目が離せなくなった。
「座らないんですか」
立ったままの黄瀬を怪訝に思った黒子が窺うように尋ね、その声でようやく我に返る。
「え、あ、そーっスね」
心許ない返事をしながら躊躇いがちにその隣へ腰を下ろすと、なぜか入れ替わるようにして黒子が立ち上がった。
「黒子っち?」
当然それを不思議に思った黄瀬が訝しげに名前を呼ぶ。疑問と動揺が入り混じった声を背に、黒子は無言のまま手にしていたグラスを目の前のテーブルへ置いた。
「どうしたんスか」
それに答えるでもなくゆっくりと振り返った黒子は、相手の手の中にあるグラスへと誘うように視線を運ぶ。
「それ、零さないでくださいね」
それだけ忠告して近付くと、ソファに腰かけた黄瀬の足の間へ自分の片膝を無理やり滑り込ませた。
「わっ、なんスか黒子っちっ、危ないっスよ‥っ」
狼狽する黄瀬を余所に腕の中へするりと入り込んだ黒子は、ソファの背もたれに両手を付いて、いつになく真剣な顔で窘める。
「零れますよ」
流し目にグラスを見やると黄瀬の注意がそちらへ逸れて、黒子はその隙を狙ったように唇を寄せた。
状況を把握しきれない黄瀬が何か言おうと口を開いたけれど、その言葉すら奪うように唇を重ねれば、空気を伝うことなく消滅した。
「ん、‥」
触れるだけのキスをして、微かに浮かせた距離で黒子が意図せず囁く。
「唇、冷たいですね」
掠めた吐息に黄瀬の肢体がビクっと震え、明らな困惑が見て取れた。けれどそれを無視して黒子が再び顔を寄せると、グラスを持つ手とは反対の手で強く胸を押し返された。
「ちょっと待って黒子っちっ 一体どうしちゃったんスかっ」
普段だったら絶対にしない行動は黄瀬をただ驚かせるだけで、慌てふためく様子は黒子にとっても想定内だったけれど、それはそれで気に入らなかった。
「どうかしないとしちゃいけないんですか」
「そういうわけじゃないけど、」
「なら黙っててください」
少し強めに放った言葉に黄瀬はぐっと息を飲み、黒子はその間にネクタイへと指を伸ばした。
「えっ、わ、黒子っち‥っ!?」
「大人しくしててください、グラスから中身が零れます」
本気で当惑し始めた黄瀬を牽制し、黒子は落ち着き払った様子で結び目に手を掛けた。
するりとネクタイが抜き去られ、フローリングの上に歪な輪を作る。
「これ以上はマズいっス」
「何がですか」
「いや、だから、」
口ごもる黄瀬を待ちもせず、黒子は当然のようにシャツのボタンへ指を伸ばした。
「待って黒子っち」
それにはさすがに顔色を変えて、ボタンに掛けられた指の上から黄瀬が制止する。
「今止めとかないとマジで後悔するっスよ」
微かに残る理性を手繰り寄せて諭す黄瀬に、されるままに手を止めた黒子だったが、黙って従うつもりはなかった。
「しないです」
はっきりと断言して再び手を動かし始めた黒子がボタンを外し始めると、黄瀬は分かり易く吐息し、手首を掴んで自分のもとから遠ざけた。
「分かってないっスね、今日が平日だろうとなんだろうと始まったら手加減なんてできないんスよ」
責めるように告げた黄瀬も、そう思わせている自分自身も、何もかもが黒子には気に入らなかった。
「分かってないのはキミの方です」
視線を逸らしながら上体を起こした黒子は、掴まれた手首を解いて徐に立ち上がった。
「そんなこと別に構わないって言ってるんです」
それだけ言って逃れるようにその場から離れると、黄瀬が咄嗟に手首を取った。
「なんですか」
強く握られた手首に視線を落とし、そこから腕を伝って横目に黄瀬を見つめる。
「今日はどうしちゃったんスか」
戸惑いながらも穏やかな声音で聞く黄瀬に、あの電話を切ったあとからずっと考えていたことを改めて思い起こす。
願い通りにならないことは常で、今さらそれをなんでとは思わないけれど、それでも今日だけは例外であればいいと思っていた。なのに結局上手くはいかない。
「どうしもしません、ただ今日は黄瀬くんの誕生日だから」
「うん、そうっスね」
まるでこちらの答えを知っていたかのように即答され、思いがけず黒子が目を瞠ると、喜色に満ちた視線が注がれた。
「それで?」
相好を崩した黄瀬から漂う空気に、最初からある程度この人の知るところだったのかもしれないと思えば、途端に羞恥が込み上げる。
「黄瀬くんといると、どうしたらいいのか分からなくなります」
吐き出すように吐露した黒子に目を細め、黄瀬はぐいっと手首を引くと、もう一度その身体を腕の中に収めた。
「どうしてっスか」
黒子の顔を見上げながら膝裏に手を掛け、自分を跨がせるようにして腿の上へと座らせる。腰に腕を回して逃げられないようにしても黒子が何も言わないのは、おそらく今はそんな余裕すらないからだった。
「キミの想いにどうやって応えていいのか分からないんです」
「うん、それで?」
黄瀬がやさしく頷き、黒子の胸はなぜかチリッとした痛みを覚えた。
「ボクはキミにみたいに好きだとか会いたいとか簡単には言えなくて、」
「うん」
「でも思ってないわけではないんです」
「知ってるっスよ」
まっすぐに見つめ返す黄瀬の瞳から伝わるものに、再び胸の奥が軋んだ。
「それで?」
「だから、」
黒子は一旦そこで言葉を切ると、ふーっと深く息を付いたあとで、迷いながらもその先を紡いだ。
「せめてキミが欲しいと言ったものをあげようと思っただけです」
― 誕生日プレゼント? なら黒子っちが欲しいっス
いつもの軽い調子で吐かれたセリフが本気なのか、冗談なのか分からなかったけれど、それ以外はさらに見当もつかないから、ウソでもホントでもどっちでもよかった。
欲しいと口にしたのなら、きっと気持ちはゼロじゃないのだろうし、その可能性に賭けて少しでも欲しいと思ったものを差し出せるなら、それ以上のものを知らない。
言葉にしたあとで上手く伝わっているのか黒子が不安になっていると、ほんのちょっとだけ空いた間のあとで黄瀬が問う。
「黒子っちは、オレのことが好きっスか」
そうやってストレートになんでも口にするのはずっと変わらない。それに答えるのはいつも至難の業で、でも最後は必ず言わされる。
「ん?」
ねだるような甘い声に弱いのは、そのたびに逆らえないと思うからで、せがむような視線に溺れるのは、そのたびに恋しく思うから。
「好きです」
「なら、それでいいじゃないっスか」
黄瀬がふっと頬を緩め、腰に回されていた腕がゆっくりと背中を上る。
「いつも言ってるよね」
その手が項を捕らえ、耳の付け根を親指でさすられる。
「事は全部黒子っち次第なんスよ」
そう言って笑った顔は、思わず見惚れるほどだった。
「だからなんでも、黒子っちの思うまま、したいまま、それでいいんじゃないスか」
両手で顔を引き寄せられて、唇を重ねられ、そして耳元で囁かれる。
「黒子っちの気持ち、たぶん黒子っちが思ってる以上に伝わってるスよ」
その言葉に瞼の奥がじわりと熱くなった。
「ボクが幸せな気持ちにさせられてどうするんですか」
こんなときでさえ与えられるだけの自分の不甲斐なさに、黒子はぎゅっと指先に力を込めた。
「黒子っちが幸せならオレも幸せっスよ、それに、」
突然口の端を上げて、黄瀬が意味深に言葉を区切る。そして空気を変えるようにいやらしく笑った。
「今からいっぱい黒子っちくれるんでしょ?」
思ってもいなかった台詞に、黒子は思わずふっと破顔した。
こうやっていつも幸せな気持ちにさせるのは誰なのか、この人は知っているのだろうか。
「そうですね、もらってくれるならいくらでも」
何も返せない自分に少しでもあげられるものがあるならと、黒子はそっと唇を寄せた。
「うッ‥ァ‥ッ」
力任せにグッと体内へ身を沈めると、その圧迫感からかひどく苦しげな声が黒子から洩れた。
それ以上の侵入を拒むように胸を押し返す黒子の手を取ってシーツへ縫い付けると、黄瀬はこのあとのことを謝るように唇を落とし、さらに奥深くまで腰を進めた。
「ひ、ッ‥ァ‥」
痛みにも似た嬌声に二人の唇が離れ、内側に与えられる衝撃に耐えるように黒子が下唇を噛み締める。すると黄瀬は、それに見兼ねたのか伸ばした指先で歯列を割った。
そのあとで再び唇を重ね、滑り込ませた舌で執拗に口内を蹂躙すると、それに合わせてようやく浅い呼吸を繰り返し始めた黒子に密かに安堵する。
「久しぶりすぎて受け入れ方忘れちゃったとかないっスよね」
口元に笑みを浮かべて見下ろす黄瀬を苛立たしげに黒子が睨め付ける。
「違います、キミがいつもより‥‥ッ」
「それはまぁ、久しぶりだからしょうがないっスね」
しれっとそう言った黄瀬は逃げる黒子の腰を両手で掴み、自分のもとへとぐいっと引き戻した。
「んッ‥ァ・・・、だから‥、慣れるまで待ってくださいって‥っ」
「あんなふうに煽られて待てるわけないじゃないっスか」
「煽ってません・・・っ」
湿った吐息と濡れた瞳で詰られても効果なんてあるはずもなく、今はすべての仕草が黄瀬を煽るだけだった。
― それでこの続きは黒子っちがしてくれるんスか?
あのあと、肌蹴た胸元に視線を落として、意地悪くそう聞いた自分にも非はあるのかもしれない。
― それとも、オレがしていいの?
含んだ言い方をしたのも、試すように瞳の奥を覗いたのも、わざとだった。
― キミの好きにしてください
― 黒子っちはしたくないの?
けれどこのあとはどう考えても向こうに非がある。
― 欲しがったのはキミでしょう
いつもなら鬱陶しげにそう言うはずだから、これだって特に何とも思わなかったのに、次の瞬間しまったとあからさまに瞳の奥が揺れて、素直になれない自分を責めるように逸らされた視線に容易く理性を奪われた。
― つれないっスねぇ
そしてそう口にしたときにはすでに歯止めが効かなくなっていた。
「まぁそうっスね、オレが勝手に煽られただけっス」
黄瀬は黒子の太腿に両手を掛けて左右に大きく開くと、ゆっくりと抽挿を開始した。
「ん‥、ァ‥」
肌のぶつかり合う音と、繋がった場処から響く水音が羞恥を煽り、快感に抗うように黒子の唇が噛み締められる。けれど規則正しい律動に揺さぶられ、何度も何度も抜き差しを繰り返されると、徐々に口元が緩み始めた。
「は、ぁっ‥‥ん、…‥」
黒子の口から甘い吐息が洩れ、次第に乱れていく息遣いが黄瀬の耳を犯す。絡みつく内側の粘膜に柔らかく締め付けられ、時折小刻みに震える肉壁に痛いほど追い詰められた。
「っん、ぁ‥‥、でも、‥」
熱に浮かされた瞳が真っ直ぐにこちらを見つめ、シーツを彷徨っていた手が黄瀬の頬へ伸ばされる。
「訂正します」
汗ばんだ白い肌が誘うように紅く染まり、黄瀬は堪らずに喉元へ噛み付いた。そのまま項を辿り、耳朶を食み、そっと囁く。
「何を?」
「本当は、キミじゃなくて、」
黒子は喉を鳴らし、無意識に乾いた唇を潤わした。
「今日会いたかったのも、こうしたかったのも、きっとキミよりボクの方です」
「そういうとこ、ほんと堪んないっスね」
黄瀬が思わず柔らかな笑みを零すと、黒子もまた釣られるようにふわりと笑った。
「キミに出会えてよかったって、ボクも思いますよ」
「うん」
「生まれてきてくれて、ありがとう」
それは何よりも心を揺さぶる言葉で、これ以上に価値のあるものを黄瀬は知らなかった。
声を聞きたいとか、会いたいとか、そんなふうに相手を欲することは確かに少ないのかもしれないけれど、大事なことは絶対に口で伝えてることを、この人は知っているんだろうか。
そうやって、いつも幸せな気持ちにさせるのは誰なのかってことを、アンタはもっと知った方がいい。