世界は鮮やかに色付いているのだと、あのときオレは、はじめて知った。
存在感がなくて冴えなくて、何を考えているのかもよく分からない。なのに超強豪校の一軍レギュラーで、教育係。
人目を惹く才能があるとはお世辞にも言えないのに、はっきり言って意味不明だと、おそらくそう思っていたのは自分だけじゃなかった。そして、醜い感情からその存在を疎ましく思う輩もきっと少なくなかった。
記憶に残る相手の印象なんてその程度のもので、ぶっちゃけそれすらどうでもいいことだった。
あの日、思い付きで賭けを持ちかけたのも単純に面白そうだと思ったからで、もっと悪く言うのなら、嫉妬と羨望の渦中で顔色一つ変えない淡々とした姿に、悪意にも近い悪戯心と好奇心が湧いたから。それ以上の感情も意図も、どうでもいい人に存在するはずもなくて、良くも悪くも必要以上に興味をそそられた事なんて一度もなかった。
そしてそれはこの先もずっと変わらないと、あの瞬間までは疑いもしなかった。
「考え事ですか」
珍しく真剣な表情で隣りを歩く黄瀬にそう尋ねると、突然掛けられた声に思考を遮られたのか、ゆっくりと視線がこちらへ向けられた。
「別になんでもないっスよ」
「そうですか」
いつもならこちらが聞いていようがいまいが気にせずしゃべり続け、要らない報告までしてくるような人が、こんなふうに言葉を濁すのは珍しい。
黒子はそれに気付いて訝しげに顔を窺った。
「なんスか心配?」
視線を感じて黄瀬がクスリと溢す。
「いえ」
「ふーん、それは淋しいっスね、オレはいつだって黒子っちに夢中なのに」
この手の軽さや調子の良さはこの人本来のもので、言葉だけを取ってみれば別段これといっておかしなこともない。きっと誰の目にも相違なく、聞き流してしまうほど取るに足らない些細な会話だった。
けれど他の誰かにとってはそうでも、黒子にはそうじゃなくて、このたった一言で、流すつもりだった会話を単純に流せなくなった。
「今そういう話じゃなかったですよね」
言いたくないのなら無理に詮索するつもりはないし、付き合っているからといってすべてを共有する必要はないと思っている。
ただ、今のは明らかに不自然すぎた。
もともと無闇にウソを付く人ではないし、自分に対してはとりわけ真っ直ぐなのを知っているから、それならそれで構わなかったのに、話を逸らすためにこの手の台詞を利用したことが黒子には気に喰わなかった。
ただ、だからこそ尚更、そこまでして逸らされた話題に触れられるわけもない。
「もういいですが」
そう言って視線を外した黒子に黄瀬は静かに頬を緩めた。
「そういえば、黒子っちはいつからオレのこと好きだったんスか」
「は?」
思いもよらない問いに黒子は相手を凝視したが、瞳の奥を探ったところでその真意を当てることなどできない。
二人の間に流れる風が沈黙を運び、黒子はもう一度頭の中で言われた言葉を巡らせた。
― ボクがいつから黄瀬くんを好きか?
そしてそんなつまらないことを少しでもマジメに考えようとした自分を笑い、答えをはぐらかすために質問を質問で返した。
「そんなこと聞いてどうするんですか」
けれど黒子の思惑とは裏腹に、黄瀬がそれに靡くことはなかった。
「そうやって誤魔化すのは無しっス」
揶揄うように言いながらも本気なのだろうことは口調から分かって、黒子が顔を強張らせると、それに反して黄瀬は笑った。
「たぶん誤解してるみたいなんで先に言っとくけど、話を逸らすためじゃないっスよ」
内心を見透かす黄瀬の台詞に黒子はどきりとした。咄嗟に言葉を失って何も答えられずにいると、静寂の中に潜む黄瀬の思惑が身体中に纏わり付いて、身動きが取れなくなる。
「だいたいいつもキミは唐突過ぎます」
その重圧から逃れようと、黒子は諦めたように視線を上げた。
「唐突じゃないっスよ、ちょうど今そんなこと考えてたところっス」
「だとしたらむしろ気持ち悪いです」
この話題から逃れたくてわざと悪態を付く黒子に、黄瀬はふっと口元を歪めた。
「相変わらずクチ悪いっスねぇ」
さほど堪えた様子でもないくせに、詰るようにそう言ったのは明らかに計算で、責めることで黒子の退路を断った。
「そんなこといちいち覚えてないです」
曖昧な返事でなおも逃げようとする黒子に、それならと黄瀬がわざとらしく皮肉げな視線を向けた。
「ふーん、それは残念っスね」
「覚えてないものは仕方ないです」
「別にいいっスよ、言ってみれば思いの差ってやつっス」
それは明らかな黄瀬の挑発だと、分かっていたのに流せなかった。
「なんですかそれ」
「黒子っちはオレに勝てないっスよ」
「そんなくだらないことで勝手に人の気持ちを測らないでください」
腹立たしさに少し強めに放った黒子だったが、黄瀬は一瞬目を瞠ったあとでニヤニヤと笑い掛けた。
「それは嬉しいっスね」
隠すことなく喜色を露わにする黄瀬の心理が黒子には分からなかった。
「今度はなんですか」
「なにって、オレのことがすげぇ好きだって言ってるようなもんスよ」
言ったそばからニヤつく黄瀬を黒子は怪訝な顔で見上げた。
「当たり前じゃないですか、こんなに長く一緒にいるのにそれ以外の理由が他にありますか? そもそも勝手にズカズカと人の内側に入り込んどいていつから好きってなんですか。こっちは気付いたらキミのことばかり考えさせられて、意識させられて、迷惑もいいところだったのに」
治まらない苛立ちを吐き出すように最後は投げやりに言ってのけた黒子を、黄瀬は思わず抱き寄せた。
「わっなにするんですか‥っ」
「ごめん黒子っちキスしたい」
「な、やめっ、よくこのタイミングでそんなことが言えますね、バカなんですか」
「なんでもいいからキスさせて」
「ダメに決まってるでしょうっ それにボクは今キミに対してものすごく不愉快なんです」
なんとか逃れようと腕の中で暴れる黒子を、黄瀬はさらに強い力で抱き締め返した。藻掻けば藻掻くほど相手をその気にさせるだけだと知っていても、抵抗せずにはいられない。
「離してくださいっ」
「いいから黙って」
「ふざけてないで早く‥っ」
「しぃー‥‥」
幼い子供をあやすように、唇へやさしく人差し指を押し当てられて、反射的に押し黙った黒子に黄瀬がクスリと笑う。
「そうそう、いい子」
強引に顔を引き寄せられ、互いの吐息がかかるほどまで唇を近付けられれば、あとは理性なんてないに等しい。
重なるか重ならないかのギリギリの距離で、黒子は憎らしげに吐き捨てた。
「あとで覚えてろ、です‥っ」
「それは楽しみっスね」
そして結局、拒みきれない。
ようやく唇を解放されて目を開けると、そこには自分の唾液で濡れた唇があって、その猥褻さに黒子は視線を合わせられず顔を背けた。
「気が済んだのなら離してください、うざいです」
間が持たずあしざまに言う黒子が可愛くて、薄っすらと潤んだ目尻に黄瀬は再び唇を落とした。
「黄瀬くんいい加減に‥っ」
力任せに胸を押し返す黒子に逆らって、黄瀬はキツくその身体を抱き寄せた。
「オレはあの日から黒子っちしか見えないんスよ」
突然声色を変えた黄瀬が意味深に囁き、黒子は押し退けていた手を緩める。
「あの日?」
「そーっス」
「よく分からないんですが、」
「知りたいっスか」
黒子の想いを知るように黄瀬がいやらしく笑う。
「別に興味ないです」
途端に冷たさを増した黒子の声に、黄瀬は再び笑い、今度は至極甘い声で囁いた。
「いつか分かるっスよ」
「だから興味ないです」
「そうはいってもこの先もずっと一緒にいるんだから、いつかきっと分かっちゃうっス」
そう言って嬉しそうな顔をした黄瀬に、黒子の胸がどきりと高鳴った。
「少しは靡いたっスか」
「そうですね、堪らなく」
「それは反則っス」
冗談半分に聞いたはずの言葉は思いがけない形で黄瀬のもとへと返り、瞳の奥に潜む黒子の劣情に、黄瀬の肢体が震えた。
世界は鮮やかに色付いているのだとはじめて知ったあの日。
― 黒子っちがすげぇのはわかったけど、それって楽しいんスか?
はじめて向けられた微笑みと、真っ直ぐな視線に容易く目を奪われた。
― 楽しくないですよ、負けたらもっと。
あの日から鮮やかに変わった世界が色を失くすことはなくて、今でも昨日のことのように思い出す。
それはこれからもきっと、ずっと、色褪せない。