キスして / 天使・悪魔
傾き始めた陽に照らされる図書室と、その淡い光を受けて煌めく髪。
教科書を開いたまま無防備にもうたた寝をされれば、黄瀬の胸は無性にざわついた。
好きで好きでどうしようもなくて、
自分のものになればいいのにと強く願った。
それももう随分と長いこと。
できることなら誰の目にも入れず、誰の手にも触れさせず、
誰も知り得ない奥まで入り込んで、すべてを奪い尽くしたい。
嫉妬、強欲、肉欲
この世に存在する七つの罪を悪魔の化身と呼ぶのなら、
その半数近くを一人の相手に抱いている自分は、まさにそれだった。
穢れなど何も知らないような顔をして眠る横顔に、
まるで真逆の存在だなと、黄瀬は苦い笑いを零した。
透けるような白い肌も、伏せた睫毛の長さも、
流れる髪も、すらりと伸びた指先も、試すように黄瀬を誘う。
この時間を逢魔が時とはよく言ったもので、
仄暗い光と、微かな物音だけが響く室内に黄瀬は俄に惑わされた。
ダメだと分かっていても伸ばしてしまった指先で、そっと黒子の髪に触れる。
伏せた瞼に今ならと、そう思った自分を心の中で唾棄しても、
一度触れてしまえばその先を止められなかった。
徐々に近付く唇は無意識とはほど遠く、罪悪感との狭間で黄瀬を責める。
じわりと全身に滲む汗と、強くなる胸の圧迫感。
痛いほどに鼓動が逸り、一筋の雫が背中を下った。
ヒヤリとした感触に背筋が戦慄き、唐突に交差する現実。
このまま唇を重ねて、その先にあるのは天国か地獄か。
苛むような息苦しさからかふと過ぎった思いに、黄瀬は自嘲気味に笑いを零した。
そんなの後者に決まっている。
触れるか触れないかの距離で唇を止めた黄瀬は、
瞼を閉じ、やっぱりダメだとその先を思いとどまった。
「アンタが好きなだけなのに」
思わずこぼれ落ちた想いは諦めにも似て、
行き場のないまま静かな部屋にひっそりと響く。
けれど空気を伝った想いになのか、触れた吐息になのか、
視線の先でおもむろに瞼が開き、黄瀬は咄嗟に身を引いた。
「黄瀬、くん...?」
目を逸らせなかったのはきっと本能で、
再び強くなっていく心臓の音に急速に喉が渇いた。
「よく、寝てたっスね」
努めて平静を装った声は震えていなかっただろうか。
ずっと秘めていた思いがこんな形でバレるのだけは避けたくて、
白々しく誤魔化した自分の弱さに呆れても、そのこと以外は考えられなかった。
目を覚ました黒子にじっと見つめられ、
何か思うところがあるような視線に手のひらが汗ばむ。
どうか最悪の事態だけはと願う黄瀬は、
微かに動いた黒子の唇に気付き、先手を打った。
「もこんな時間っスけど、どうする?」
それらしく壁に掛かった時計に目を移したのは、相手の視線から逃れるためだった。
けれどそれに安堵したのも束の間、視界の端から聞こえたわずかな溜め息に身体が強張った。
一気に血流を増した心臓がドクドクと大きな音を立て、
続けざまに囁かれた台詞は、黄瀬の思考を瞬時に凍らせた。
「キミらしくないですね」
それはいったいどういう意味なのか。
やはりさっきのあれを聞かれていたということなのか。
頭の中が真っ白になり黄瀬が先を続けられずにいると、
その疑念に答えるように黒子が代わりに先を続けた。
「さっきまでのこと、なかったことにしたいんですか?」
ここまで言われればもはや疑う余地もなくて、
だったらどうすればいいのかと、黄瀬の頭はパニック寸前だった。
「もしかして、起きてたんスか...?」
「そうですね」
「いつから、っスか...?」
「割と早い段階で」
本来なら胸に秘めたまま誰にも知られなかった想い。
サァっと血の気が引いていくような気がして、黄瀬はごくりと喉を鳴らした。
「それでキミはどうしたいんですか」
できることなら今すぐこの場から立ち去りたい。
けれどそうできるはずもなく、黒子の問いかけに浮かんだのは2つの選択肢だった。
この際、ダメ元でもう一度告白するべきか。
それとも当初の予定通り、なかったことを突き通してみるか。
どっちにしたって行き着く先は同じなら、
男らしく目を見て気持ちを伝えようかと心が逸る。
けれどそれを言ってどうなるんだと思ってしまえば、ギリギリのところで唇は動かなかった。
「ごめん、忘れてほしいっス」
「ほんとにそれでいいんですか」
席を立とうとした黄瀬の腕をぎゅっと掴んで黒子が引き止める。
流し目にそれを見た黄瀬は、天使のような顔をして案外残酷だなと、苦笑した。
「いいんですかって、それしか‥」
「ないと思いますか?」
黄瀬の言葉を遮るようにそう言った黒子は、
掴んだ腕を強引に引き寄せ、その手を自分の胸元へと持っていった。
それには当然驚きを隠せず、黄瀬が動揺を露わにする。
「なっ、....」
「分かりますか?」
けれど、やけに落ち着いたその声とは対照的に、
指先を掴む黒子の手が震えていることに気付き、黄瀬はドキリとした。
じっと見つめる真剣な瞳に飲み込まれ、
黄瀬の意識は唐突に手のひらへと移っていく。
瞬間、指の先から伝わった胸の鼓動。
自分のものではないかと錯覚するほどに、
その強さも、速さも、内側から聞こえるものとほぼ同じだった。
どちらを追いかけるでもなく互いの鼓動が重って、
黒子は何もなかったようにあっさりと、黄瀬の手を放した。
「これでも、ボクの気持ちは知りたくないですか」
「え、あ、まさか、‥」
胸元に落としていた視線を上げれば、
黄瀬の動揺を笑うように、黒子が悪戯に微笑む。
「キミって結構悲観的ですよね」
その表情に、胸の奥がなぜか急激に苦しくなった。
天使か悪魔か。
天国か地獄か。
辿り着く先がどこであっても、
この恋が手に入るなら、そんなのどっちだってよかったのに。