侵蝕

濡れた瞳 / 誘う口唇 / 思い惑う心 / 焦がれる指先 / 絶対不可侵領域

均衡を保っていた関係が崩れつつあることを知っていた。

 

『キミとはもう寝ません』

 

あの人がこれ以上踏み込んでこないように、あの人に悟られないように、

それは自分を守るために必要だった。

 

そして何より、心を侵蝕されないように。

 

 

 

焦がれる指先

 

 

 

 

 

 

厚い雨雲に覆われた空は、放課後になるとひっそりと雨を降らせた。

 

しとしとと静かな水音が耳に響き、誘われるように視線を伸ばせば、

無数に広がる水滴が細い線となって草木を振るわせていた。

 

降り続ける雫は風と共に冷気を運び、いつしか黒子を包み込む。

 

いつもなら心地良いはずのそれも、

今は重苦しく身体に纏わり付くだけで、胸がざわついた。

 

黒子は手にしていたレポートに目をやって、

ふーっと小さく溜め息を付くと、再び廊下の向こうに迫る薄暗い闇を見つめた。

 

できることなら今はたとえ単位を落としてでも訪れたくない場所。

そして、避けたい人。

 

私情を優先できるなら是が非でもそうするのに、

約束を破ることはできなくて、向かう先に足が重たくなった。

 

数週間前まで当たり前のように身体を重ねていた。

あの人に抱かれることになんの抵抗もなく、それは快楽という名の下に日常化した。 

 

けれど終わりがないように見えたそれにも終わりはあって、

これが最後だと、一方的に関係を断ち切ったのは自分、そのきっかけを作ったのは向こうだった。

 

己の支配欲を満たすための戯れだったのか、

束の間の衝動に駆られた無意識の行動だったのか、それはちょうどこの廊下で起こった。

 

相手の意図するところなど知れないが、

あれがもし揺れ動くこちらの心情に気付いた上での行動だったならば、

これ以上危険で、これほど性質の悪いものはなかった。

 

だから引き返せるうちにと、終わりを告げた。

 

あの人に抱かれなければ、会わなければ、

この身体の疼きも徐々に消え、それですべてが元に戻ると思っていた。

 

けれど薄れていくはずの感触は日を追うごとに鮮明さを増し、

指の動き一つさえも忘れることを許さなかった。

 

細長く骨ばった指先が性感帯を探り這い回る。

見つけられた場処は執拗に嬲られ、飽くことなく弄ばれた。

 

あの人を受け入れるために後ろの口を慣らされるとき、

あの人は必ず自分の指を自分の唾液で濡らした。

 

中指を立て、口に含み、舌を使い、音を鳴らしてみせる姿は、目を逸らしたくなるほどに凄艶で、

唇の間に割って入る指先も、ちらつく朱い舌も、淫猥な水音も、見ているだけで達してしまいそうだった。

 

滴るほどの唾液に濡れた指が、口元を離れ後孔へと伸ばされる。

 

本来の機能に逆らって外から内へと押し拡げられても、

強要されているうちにそれは徐々に快楽へと変わっていった。

 

次第に視界が恍惚として、拒むことなど忘れてしまったかのように甘い吐息が洩れるのを止められず、

自分でも信じられないほどの淫らな息遣いが強請るような声音に変われば、それがあの人への合図となった。

 

そこから先は耐え難い羞恥の始まりで、排泄するためだけの場処へ、あの人の精がすべて吐き出されるまで、

それは決して終わることはなく、解放されることもなかった。

 

期待から自然と腰が揺れ、与えられる快楽が羞恥心を上回る。

それが最大の恥辱となっても、一途にあの人を求めては、快楽に身を任せた。

 

そのときの感触が蘇り、黒子はぶるっと身震いした。

一際ひんやりとした風が身体を包み込み、我に返る。

 

「何を考えて…」

 

嫌悪感から頭を振って払拭しようとしても、

刷り込まれた感触は決して消えないことを黒子は知っている。

 

これまで何度も繰り返した情事の片鱗に火照る身体と揺れる心。

 

それはすでに制御できなくて、

手遅れだったのかと思うだけで手のひらに汗が滲んだ。

 

すぐ目の前にはあのときの死角。

通るたびに思い出すあの唇の感触。

 

今はまだ感情を抑えられる自信がないから、会いたくなかった。

けれどこのままずっと、そうやって逃げているわけにもいかない。

 

視界に入らないよう目を伏せてその場を通り過ぎた黒子は、

沸き起こる焦燥に耐えるように、そこから一歩を踏み出した。

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