侵蝕

端的に言えば、別に誰でもよかった。

 

女に振りまく愛想に飽きていたのは確かだけれど、

特に何かを考えていたわけではないし、特別に誰かを選んだわけでもない。

 

自分が欲した時に偶然にもそこにいた。

ただそれだけのこと。

 

それ以外には何も無かった。

 

 

 

 

誘う口唇

 

 

 

 

 

 

この晴天の昼下がりに休講の穴を自習で埋める気にもなれず、

かといって不特定多数の誰かと上辺の付き合いをする気にもならず、

黄瀬はムダに広い構内を歩きながら、ひとり過ごせる場所を探していた。

 

これだけの敷地を持ってすれば簡単に見つかりそうだが、

学生の数が比例する以上、どこかしらに点在する人影を避けることは難しい。

 

退屈凌ぎに窓の外を覗いてみても感興をそそられることもなく、

どこにいてもつまらないなと心中で愚痴れば、視線を戻した先で偶然にも興を見つけた。

 

前方からやってくる人物もまた、こちらに気付いているのかいないのか。

考えたところでいつものように知らないフリをするんだろうなと思えば唐突に悪意が沸いた。

 

「奇遇っスねぇ」

 

すれ違いざまに横目でチラリと盗み見ると、

予想外のことにびくっと震えた相手の肩に黄瀬はクスリと忍び笑う。

 

いつもなら廊下で顔を合わせてもこんなふうに声を掛けたりはしない。

口を開くとすればそれは唯一、閨事の約束をするときだけだった。

 

それも自分の気が向いたときにだけという、極めて一方的な誘い。

 

抱きたいときに抱けて身体の相性も悪くない。

女性特有の傲慢な独占欲もなければ干渉もない。

数え切れないほどの情事に溺れても、ベッドを出れば徹底して他人を演じる。

 

潔癖に見える黒子がどうしてこんな割り切った関係を受け容れているのか、

それを疑問に思わないこともないが、興味本位の詮索で失うにはあまりにも惜しい存在だった。

 

余計なことは知らなくていいと、これ以上の関わりは不要だと、おそらく互いに思っている。

だから身体の関係以外を黒子が求めたことはないし、黄瀬も気分でなければ視線すら合わせなかった。

 

用がなければ互いに目も合わせず、無言で横を通りすぎる。

 

それは暗黙のうちにできたルールで、

いろいろと面倒なことが多い黄瀬にとってひどく都合がよかった。

 

「そっちも休講っスか」

 

なのになぜそのルールを破ったのか。

どうして今、声を掛けたのか。

 

揶揄って反応を楽しもうとしたのは事実だけれど、

その理由を考えたところで黄瀬には明確な答えがなかった。

 

「用がないなら話し掛けないでください」

 

冷たい目つきと鬱陶しげな口調で突き放されても悪い気はしない。

 

「挨拶くらいいいんじゃないっスか」

 

むしろ平然と悪態をつく、その唇にそそられて視線が移る。

 

「迷惑です」

 

整ったキレイな唇から零れるのは不釣り合いなほど素っ気ない台詞。

閨ではあんなにも淫らな吐息を洩らす唇が、今は躊躇いもなく毒を吐く。

 

「ゼミ仲間なんだし、挨拶くらいした方が自然っスよ」

「今さらですよね」

 

きっぱりとそう告げられ、黄瀬はふっと鼻で笑った。

 

こんなにも頑なに拒絶を示す唇が、

組み敷いたシーツの上では艶やかな声で鼓膜を濡らすのだから、

思い出すだけで支配感にゾクリとする。

 

抵抗する身体を捻じ伏せて、無理やり嬌声を上げさせる。

イヤだと言い続けた唇も、強引に挿入した楔で体内を蹂躙する頃には強請ることしかしなかった。

 

紅潮した頬と、誘うように湿った唇。

続く吐息は眩暈を起こすほどに熱く、息遣いは蜜より甘い。

 

けれどその夢現が一瞬にして冷めるときがあって、

我を失うほどの獣慾に掻き立てられ自ら腰を揺らしていることに気付いた刹那、

浅ましい自分を戒めるように、襲い来る恥辱に耐えるように、きゅっと唇が噛み締められた。

 

その仕種は黄瀬の嗜虐心を殊更に煽って、他の誰にも感じたことのない淫欲を駆り立てた。

 

「身体以外は必要ないって、なんてゆうか徹底してるっスねぇ」

 

口の端に嘲笑を浮かべて悪言を吐くと、黒子はキッと眼光鋭く睨み返したが、

ここで争う気はないのか口は堅く閉じたままだった。

 

「ほんとのことっスよね、アンタが欲しいのはこの身体だけ、快楽だけでしょ?」

 

それを逆手にとって黄瀬がさらに窘める。

 

そもそも男同士でスキもキライもないし、

セックスしたからと恋愛感情が芽生えるわけもない。

 

それは互いに同じはずで、黒子だけが責められる所以はなかった。

 

ただ、この関係を黒子が不純だと自覚している分、

そうやって詰られれば反論できないことを黄瀬は知っている。

 

悔しさから黒子が無意識に唇を噛み締め、

それが不覚にも黄瀬の中であのときの仕種と重なる。

 

そして次の瞬間、本能的に黒子の腕を取った黄瀬は、

有無を言わさず廊下の死角へと連れ込んだ。

 

「‥ッ、」

 

ドンッと強く壁に叩きつけられて黒子の背中に鈍痛が走る。

 

「何するんですか‥っ」

「何ってアンタ、こんな真昼間から人のこと煽りすぎ」

 

何処に地雷があったのか、突然変わった黄瀬の目付きに黒子は怯えた。

この目の意味なら嫌と言うほど知っている。

 

「くだらないこと言ってないで放してくださいっ」

「静かにしないと誰かに見つかるっスよ、オレたちがこんな関係だってバレるのヤなんスよね?」

 

せせら笑いながらそう言った黄瀬はしーっと人差し指を黒子の唇に押し当てると、

足の間に自分の膝を割り込ませグイっと無遠慮に開かせた。

 

「ん、っ‥」

「もう感じてるんスか?相変わらず我慢のきかない身体っスねぇ」

 

わざとそうなるように触れているくせに、

茶化すように耳元で冷笑する黄瀬に黒子はイラついた。

 

「ふざけないでくださいっ」

「誘ったのはアンタっスよ」

 

全力で押し返す黒子の両腕を容易く一纏めにした黄瀬は、力任せに壁へと押し付ける。

 

「勝手なこと言ってないで放し…っ」

「この唇が悪いんスよ」

 

黄瀬は空いているもう片方の手で顎を掴むと、

伏せられた顔を持ち上げてゆっくりと唇を寄せた。

 

「やめ…ッ」

 

強引に合わせられた視線を逸らせず、覆いかぶさる影が二人の視界を徐々に暗くしていくと、

どんなに足掻いても黒子にはもはやそれを止める術はなくて、唇が重なる寸前、小さく吐き捨てた。

 

「噛み付きますよ…ッ」

 

夜になれば自分の腕の中で睦言にも似た甘い声を洩らす唇が、

どうして今、こんなにも冷淡に憎まれ口を叩くのか。

 

「やれば?」

 

イヤならこの関係ごと切ればいいのに、矛盾が興味をそそる。

 

「…ッ」

 

唇に鋭い痛みが走り、傷口から血の匂いが広がる。

 

けれど黄瀬がそれに怯むことはなくて、

口内に沁み込んだ血液を移すように口付けを深くした。

 

「んっ‥」

 

それは好奇心なのか単なる出来心なのか、

それとももっと別の感情なのか、黄瀬には分からなかった。

 

ただ、悔しいほどこの唇に誘われる。

 

執拗に舌を絡め、心行くまで貪ったあとで、

緩やかに唇を離した黄瀬が言の葉に嗤笑を乗せる。

 

「アンタ、乱暴にされるの好きっスよね、これも10倍にして返すから」

 

捕食者の目をした黄瀬に捕まって、黒子はゾクリと背筋を凍らせた。

 

その様子に黄瀬はもう一度笑い、それならそれで、

誘われるままに全部奪ってみるのもいいかもしれないと、はじめて思った。